ソフトB・川原が現役引退を決断 来季から球団職員として、新生ホークスをサポート

[ 2021年12月7日 04:00 ]

今季限りでの引退を決断したソフトバンク・川原
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 今季限りでソフトバンクを戦力外となっていた川原弘之投手(30)が現役引退を決断したことが6日、分かった。8日に行われる12球団合同トライアウトには参加せず、12年間のプロ生活に終止符を打つ。福岡大大濠から09年ドラフト2位で入団。福岡市出身の最速158キロ左腕は、来季から球団職員としてV奪回を目指す藤本ホークスをサポートする。

 川原が現役生活に別れを告げた。今季の球団在籍選手で唯一の福岡市出身左腕。支配下から育成契約になった15年以来、2度目の戦力外通告を10月18日に受けた。その直後は現役続行を希望しトライアウト参加のため調整。その間、独立リーグ球団に興味は示されたがNPBからの打診はなかった。日本シリーズ終了後の数日間で、潔く決断している自分がいた。

 「クビになったときはやりたいと思っていたが、冷静になっていく自分がいた。“ここは引くべきじゃないか”と。1年間、こんなネガティブな気持ちでやれるほど甘い世界ではない。正直、自信がないというか。覚悟ができなかったですね」

 18年に結婚し19年4月に第一子となる長男も誕生。コロナ下でできなかった披露宴は今月4日に行った。「普段通りに式に臨めたし周囲の方に祝っていただき、次の人生に向けたいい機会、節目となった」。新たな船出も重なり、すがすがしく決められた。

 09年ドラフト1位が今宮で同2位が川原。ホークス一筋12年。登板47試合での未勝利無敗を苦笑気味に振り返る。「この成績で、よくやれたなと。1勝もできなかったのは逆に凄い。こういう人生を歩める人は少ない。僕の力ではなく、周囲の方々に支えられて何とかできた12年。本当に感謝しかないです」

 律儀、謙虚な剛腕のプロ人生は波瀾(はらん)万丈だった。12年の2軍戦で当時の左腕最速タイの158キロを刻むなど期待されたが1軍初登板に3年を要した。15年春に左肩、同秋に左肘を手術し翌年から育成選手で再出発。その間も合同自主トレで球団OBの斉藤和己氏に習ったプロの意地を思い出し、すがった。中学時代の監督の助言「ひたむきに頑張っとけ。いつかいいことあるから」に助けられた。

 19年3月に支配下再登録されると同年に初の開幕1軍。「開幕セレモニーで“川原”と呼ばれたときの声援は今でも思い浮かぶし、忘れません」。同年3月30日の西武戦では6年ぶりに1軍登板し、本拠地で初のお立ち台に。「19年が僕の開幕でした。正直、僕がナイスピッチングをした試合はないんですが」。今季登板は3試合。プロ最終登板は4月3日、西武戦だった。

 中学3年で「第1回ホークスカップ」の優勝投手となり、その3年後に地元球団のプロ選手となった。今後はホークスの職員として戦力となる。「何かしらの形でホークスに貢献できる人材になりたい。野球以外も勉強していくし、どんな形でも野球に関わり続けたい」。鷹の地元っ子“川ちゃん”の第2章が始まる。

 ◇川原 弘之(かわはら・ひろゆき) 1991年(平3)8月23日生まれ、福岡市出身の30歳。南片江小1年で競技を始める。左利きだが小学3年まで右投げ左打ち。左用グラブを両親にプレゼントされ左投げに。片江中では福岡ウイングス所属。福岡大大濠では2年秋の九州大会準々決勝で今村猛がエースだった清峰に敗退。高3夏は福岡大会5回戦敗退。09年ドラフト2位で入団。12年5月20日の巨人戦でプロ初登板。通算成績は47試合で勝敗セーブなしで5ホールド、31奪三振で防御率2.88。背番号は26、122、63。1メートル87、99キロ。左投げ左打ち。

 ▼ソフトバンク・森山良二投手コーチ(川原と同じ福岡大大濠OBで20年からコーチと選手で親しい関係)僕からしたら、もっともっとやれた投手。左であれだけ速い。努力、真面目さは人間として尊敬されていた。人としても尊敬できる。12年間もプロでできたのはありがたいこと。よくやった選手だ。本当によくやった。

 ▼ソフトバンク・千賀(川原が戦力外通告を受けた翌19日のロッテ戦に先発。川原の登場曲でマウンドへ。合同自主トレなど公私で交流)登場曲を使ったときには両親も喜んでくださったのはうれしかったです。連絡をいただいて、寂しい気持ちもありましたが川原さんの人生で決断されたこと。僕の2年目くらいのときからお世話にしかなっていません。本当にいつも感謝しています。

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