【藤川球児物語(24)】多くの記録残した05年巨人戦防御率0・00

[ 2020年12月6日 10:00 ]

05年、優勝パレードで沿道の声援に手を振る藤川

 リーグ優勝とともに、05年の藤川球児は多くの記録を残した。シーズン80試合登板は元西鉄・稲尾和久、元広島・菊地原毅が持つ記録を更新する最多登板の日本記録(現在は07年、阪神・久保田智之の90試合)だった。

 稲尾は「記録のためでなく、優勝のために重ねた登板だったことが評価できる。堂々と胸を張れる記録だ」と賛辞を贈り、直接電話で激励をしていた。

 JFKがそろって登板したときのチーム成績は39勝6敗4分け。「試合が動く7回を藤川で行く」という監督・岡田彰布のゲームプランもピタリとはまった。背番号22が流れを断ち切ると、相手の継投もワンランク下がる。ここで追加点、ダメ押し点が入ることも多かった。抑えの久保田が68試合に登板しながら、セーブが27にとどまったのも、9回までに点差が開いたことを裏付けている。

 最優秀中継ぎ賞を受賞。矢野輝弘とともにセ・リーグ最優秀バッテリー賞にも輝いた。80試合を投げて、7勝1敗1セーブ、46ホールド、防御率1・36。92回1/3を投げ、139奪三振。プロ7年目の大ブレークだった。

 誇れる記録がもう一つある。巨人戦防御率0・00。伝統の一戦で1点も許さなかった。13試合に登板し、15イニング自責0。23三振を奪った。9回完封プラス4イニング無失点の計算だ。清原和博との因縁の直球勝負だけではない。さかのぼれば、03年4月に後藤孝志に許した同点弾の屈辱を晴らした格好だ。打倒・巨人への思いが結実した数字である。

 11月6日には御堂筋での優勝パレード、12月21日には年俸8000万円で契約更改。バラ色のオフだったが、心残りはロッテとの日本シリーズの思い出だ。4連敗での敗退。初戦から3試合連続の10失点。藤川は3、4戦に登板したが、JFKとしての見せ場もなく終わった。大事な戦いでも、味方がリードをしていなければ、仕事ができない。突きつけられたチームとしての宿題に、05年後の藤川は向き合うことになる。
  =敬称略=

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2020年12月6日のニュース