【内田雅也が行く 猛虎の地】勝率9割超の「佳いとこ」 プロ野球草創期を支えた

[ 2020年12月6日 11:00 ]

(6)上井草球場

一塁側スタンド後方の松の木が印象的だった上井草球場=野球殿堂博物館提供=。写真は1950年5月7日、東京六大学リーグ、早大-明大戦。

 上井草球場は阪神にとって最も相性のいい球場だ。公式戦通算21試合を行って、19勝2敗、勝率は9割を超えている(・905)。4試合以上行った球場では中モズ(・833=5勝1敗)、日生(・780=32勝9敗)、呉二河(・750=15勝5敗1分)などをしのいで最高勝率を誇る。

 今のプロ野球初年度の1936(昭和11)年に造られた。西武鉄道・上井草駅から南西に約200メートル。東京セネタースの本拠地で、東京球場とも呼ばれた。

 当時、東京でプロ野球を開催できる球場はほとんどなかった。神宮球場は学生野球の聖地で使えず、上井草球場完成前まで公式戦59試合中、東京開催は早大・戸塚球場での9試合だけだった。

 8月29日、落成記念の東西対抗試合(非公式戦)を行った。第1戦はタイガース―大東京。7月29日に就任した2代目監督・石本秀一初采配で8―5で勝利を飾った。

 公式戦初開催は11月3―12日の東京第1次リーグ戦。5勝1敗で名古屋と勝ち点を分け合った。

 詩人サトウハチローがプロ野球を初めて観戦したのが同大会初日のタイガース―巨人戦だった。『職業野球初見参記』に<野球というより、競馬か何かに近い呑気(のんき)な気持ちが第一にした>と記している。周辺には畑が広がっていた。

 漫談家・徳川夢声は11月25日発行の職業野球連盟公報に随筆『上井草佳(よ)いとこ』を寄せている。<一度はお出でよ、諸君。松の林に、球は飛ぶよ、チョイナチョイナである。まったく>。スタンド後方に松の木が並んでいた。

 杉並区立郷土博物館が2003年に開いた特別展『上井草球場の軌跡』の展示図録には、セネタース投手・外野手で活躍した野口二郎のインタビューがある。「たまに富士山が見えましたね。特に冬は空気が澄んで(中略)雪をかぶった富士山が印象的でした」

 高峰秀子が主役の女学生を演じた映画『秀子の応援団長』(40年1月公開)に上井草球場のスタンドや松並木、先の野口が投げる光景も見える。

 39年夏、連盟が模範プレーを示した映画『野球の妙技』の撮影が行われた。タイガースから「変化球」で若林忠志、「捕手の送球」で門前真佐人、「バッティング」で景浦将が出演している。

 「野球場博士」沢柳政義が51年に出した『野球場建設の研究』によると、両翼100・6メートル、中堅118・9メートル、収容人員約2万9500人と立派な球場だったのだ。

 だが翌37年完成の後楽園球場に比べて交通の便が悪く、試合数は激減した。軟式野球や戦後は東京六大学野球も行った。

 都民や団体から多様な利用を望む声が強まり、64年には東京都が買収、取り壊し、跡地は総合運動場となった。杉並区に移管後、上井草スポーツセンターとして親しまれている。 =敬称略=
 (編集委員)

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