ドジャース・大谷 最終打席9回に安打放ち50試合連続出塁!125年前のレジェンドに並んだ

[ 2026年4月20日 01:30 ]

ナ・リーグ   ドジャース3―4ダイヤモンドバックス ( 2026年4月18日    デンバー )

<ロッキーズ・ドジャース>9回、大谷は安打を放つ(撮影・沢田 明徳)  
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 ドジャース大谷翔平投手(31)が18日(日本時間19日)、敵地のロッキーズ戦で9回に右前打を放ち、50試合連続出塁に伸ばした。「1番・DH」で出場して4打席目までは出塁がなく、瀬戸際の最終打席でウィリー・キーラーが125年前の1901年に記録した球団歴代3位に並んだ。逆転で敗れて4連勝で止まっても、歴史的な一日になった。

 初回は一ゴロ失策、8回は捕手の打撃妨害(記録は捕手の失策)。塁上には2度立っても記録上は「出塁」としてカウントされず、大谷は8回までに4打席を終えた。1点を追う9回の攻撃は7番から。2死から代打スミスが全力疾走で二塁内野安打をもぎ取り、5度目の打席が回ってきた。

 このラストチャンスを生かした。カウント1―1から右腕ボドニクの内角低めチェンジアップを捉え、痛烈なゴロで右前へ。好機を広げ、一塁ベース上で両手を小刻みに叩いて喜んだ。昨年8月24日パドレス戦から50試合連続出塁へ継続し、大半をドジャースファンが占めた4万7925人の観衆が沸き返った。土壇場で見せた勝負強さと集中力。デーブ・ロバーツ監督は絶賛を惜しまなかった。

 「本当に素晴らしいよ。最後の打席が回ってきて、試合を変えるチャンスがあるといいなと思っていたけど、実際に出塁してくれた。連続記録は大したものだし、成し遂げるには相当な実力が必要だ。彼は本当に別格の存在だ」

(球団歴代3位/) 球団歴代3位で並んだウィリー・キーラーが記録したのは1901年。イチロー(現マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)が10年連続200安打で更新するまで、8年連続200安打の大リーグ記録を持っていた正真正銘のレジェンドだ。安打をどう打つかと聞かれ、「目を見開いて、誰もいないところに打て」という有名な言葉を残したほどの大打者の名前を再び歴史から掘り起こした。

 試合前には今年2月に100歳の誕生日を迎えた「生きる歴史」とも交流した。19歳時に長崎で被爆したケリー桃代さんは、26歳で米国人の夫と結婚して渡米。娘がデンバー在住ということもあり、球場を訪れた。持参していたボールに大谷からサインを書き込まれ、記念写真も撮影。「夢みたいです。私も日本から来たから、大谷さんは誇りに思っています。光栄です」と感無量の表情だった。

 まさに歴史的な一日。大谷の一打が埋もれていた球史に光を当て、新たな時代につないだ。(杉浦 大介通信員)

 ≪大リーグ全体では44位タイ≫大谷の50試合連続出塁は大リーグ全体(1900年以降の近代野球)では44位タイ。歴代1位は最後の4割打者として知られるテッド・ウィリアムズ(レッドソックス)が1949年に記録した84試合。2位は41年ジョー・ディマジオ(ヤンキース)の74試合。ベーブ・ルースが1923年に記録した自己最長51試合に王手がかかった。プロ野球では1、2位ともイチロー(オリックス)が占め、94年の69試合が最長、翌95年には67試合を記録した。

 ◇ウィリー・キーラー 1872年3月3日生まれ、ニューヨーク出身。左投げ左打ちの外野手で、身長1メートル70(一説には1メートル63)と小柄ながら巧みなバット操作やバント、俊足を生かし、1894年から1901年まで8年連続200安打を記録し、首位打者は2度獲得。大リーグ19年間で通算2932安打、打率・341、33本塁打、810打点、495盗塁。1923年1月1日に50歳で死去。39年に殿堂入り。

 ▽1901年の世相 1月に英国ビクトリア女王が死去して「ビクトリア朝」が終焉(しゅうえん)。米国ではアメリカン・リーグがメジャーリーグを宣言し、現在の両リーグ体制が開始。9月にマッキンリー大統領が暗殺され、T・ルーズベルト大統領が就任。12月にはノーベル賞の第1回授賞式。日本は明治34年で、5月に第4次伊藤博文内閣が総辞職し、桂太郎が内閣総理大臣に就任。12月には田中正造が足尾銅山鉱毒事件を明治天皇に直訴して社会問題化。

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