【内田雅也の追球】レジェンドの「球縁」――「初代巨人キラー」西村幸生の遺族ら甲子園訪問

[ 2019年9月21日 08:00 ]

阪神・矢野監督(中央)と記念写真におさまる故・西村幸生投手の関係者。左から津野田泰介さん、西村投手長女、ジョイス津野田幸子さん、矢野監督、衣笠協子さん、上村ケサヨさん
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 通路の階段を上ると、目の前に甲子園球場と秋の青空が広がっていた。足を踏み出し、グラウンドに立ったジョイス津野田幸子さん(81)は大きく息を吸い込んだ。

 「父ちゃん……」と呼びかけた。父はタイガース草創期のエースで「初代巨人キラー」と呼ばれた西村幸生氏(戦死)だ。「ここが父ちゃんが投げていた甲子園……。空気をいっぱい吸い込んでおこう」

 ハワイ・ホノルルとさいたま市を行き来して暮らす幸子さんの甲子園訪問は2013年7月以来6年ぶり。グラウンドに立つのは初めてだった。

 練習の合間、阪神・矢野燿大監督が歩み寄り、記念撮影に応じてくれた。監督は「光栄です。偉大なOBの方に敬意を表します」、幸子さんは「ぜひ、勝ってくださいね」と握手を交わした。

 今回の訪問は幸子さんが英語で執筆する父の伝記取材を兼ねていた。戦後、日系2世の母・末子さんの故郷ハワイに渡って暮らし、ハワイ大で博士号を取得。ハワイ大副学長、ハワイ州立全短期大学総長にもなった。「父のことだけでなく、ハワイの人びとに日本の野球文化など、時代背景も伝えられたらと思っています」

 球団事務所では揚塩健治球団社長と懇談し、資料提供を受けた。社長は「レジェンドゆかりの方の訪問は実にありがたい。タイガースの強みは何と言っても、こうした伝統です」と歓迎した。

 前日19日は新婚でタイガースに入団した西村氏が過ごした尼崎や、ハワイ航路の玄関口だった神戸を回った。大阪・梅田での夕食会には野球でつながった12人が集まった。

 「球縁」(きゅうえん)なのだという。西村が関大でバッテリーを組んだ岡本利之氏(1970年他界)の著書『白球と共に』(改訂版=米子東高校勝陵野球クラブ)に出てくる言葉だった。

 岡本氏は関大卒業後、プロ野球・ライオン軍に入り、西村氏とも対戦した。戦後は母校・米子東高監督を長く務め、選抜準優勝(1960年)にも導いた。同書のなかで先輩・西村氏との友情を描いたエッセーのタイトルが「球縁」だった。

 タイガースを退団後、西村氏は満州(現・中国東北部)に渡り、新京(現・長春)、大連で過ごした。そして関東軍にいた岡本氏と再会した。

 今回は米子市にいる岡本氏の長女、衣笠協子さん(78)も同行していた。大連では6歳の幸子さんと3歳の協子さんらが「かーごめ、かごめ」と遊んだ。協子さんは「いっしょに遊んだ記憶が残っています」という。娘2人は2015年に「奇跡」と口をそろえる再会を果たし、以来交流を続けている。

 西村氏は1944年出征。45年、フィリピンで不帰の人となった。
 「父ちゃん」は幸子さんが大連の自宅から戦地に赴く父に、窓から呼びかけた最後の言葉だ。「今もここ甲子園に父がいる気がします」と思いをはせた。(編集委員)

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