【高校野球メモリアルイヤー】1979年夏 浪商・牛島和彦“ドカベン”香川と黄金バッテリー

[ 2018年5月2日 22:46 ]

<浪商・上尾>勝利の瞬間抱き合うエースの牛島と香川
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 【阿久悠さんが見たあの夏の記憶】100回目の夏が近づく。スポニチ本紙で「甲子園の詩」を連載した作詞家・故阿久悠氏が愛した、夏の甲子園大会。「高校野球メモリアルイヤー」の第2章は「プレーバック甲子園の詩2018」として、掲載された詩とともに当時を振り返る。連載開始は1979年。詩となった最初の試合は浪商(大阪)の初戦だった。牛島和彦氏(本紙評論家)が、故香川伸行捕手とバッテリーを組んだ夏を回想した。

 <第61回全国選手権大会1回戦 浪商3−2上尾>真っ黒に日焼けした顔。真夏の陽光に白い歯が光る。太陽をも丸かじりにする笑顔。牛島和彦も阿久悠と同様に、香川伸行の丸い顔に太陽を見ていた。

 「当時は今より(グラウンドで)喜怒哀楽を出すのが少なかった。そういう時代だった。だから香川の笑顔は余計に目立っていたね。ちょっと太っていて、笑って、打って…」

 太陽は影を作る。その陰影が甲子園にもある。阿久は禁欲的な猛練習からくる「かげり」を抱いた少年のプレーを「悲壮美」と表現した。牛島―香川の黄金バッテリー。79年春は準優勝、夏はベスト4に進んだ。猛練習。それは牛島らも例外ではなかった。

 「高校の3年間、テレビのドラマとかがぽっかり抜けている。プロ野球も見ていないな。そんな時間がなかったから」

 当時の浪商には寮がなく、牛島少年は片道1時間半かけて通学した。午前5時半に家を出て、学校に着けばグラウンド整備。授業が終わる。午後4時から8時まで白球を追った。居残り練習、片付けなどを終え、帰宅は日付の変わった午前0時半。風呂に入り、食事を済ませていると、もう起床の時間が迫る。「最初の2カ月はそれで通ったけど、さすがに“無理だ”となった」。その後は学校に近い下宿に移ったが、練習漬けの日々は変わらない。強豪校の日常だった。

 あの夏から39年。牛島は改めて詩を読んだ。「甲子園は少年を見る楽しみだ」――。書き出しの一文が特に印象に残った。

 ◆牛島 和彦(うしじま・かずひこ)1961年(昭36)4月13日生まれ、大阪府出身の57歳。2年春、3年春夏と3度甲子園に出場し、3年春準優勝、夏4強。79年ドラフト1位で中日入団。86年オフに落合博満との1対4のトレードでロッテに移籍し、93年に引退した。主に抑え投手として活躍し、通算成績は395試合で53勝64敗126セーブ、防御率3・26。87年に最優秀救援投手賞。05、06年に横浜(現DeNA)監督を務めた。

 ≪52歳で死去≫香川伸行氏は、強打と体形が漫画「ドカベン」の主人公・山田太郎と重なり、「ドカベン」と呼ばれた。79年夏の甲子園で3試合連続本塁打。南海・ダイエーで10年間の現役生活を送った。01年から腎臓を患い、14年9月26日に心筋梗塞のため52歳で亡くなった。

 ≪79年から全363編≫阿久悠氏の「甲子園の詩」は363編にのぼる。79〜03年の25年間は夏の大会中、毎日掲載。テレビで全試合を見て一番の感動シーンを詩にした。洲本高(兵庫)在学中の53年に同校が選抜大会初出場初優勝。作詞した曲には「狙いうち」「サウスポー」など応援歌でおなじみのものも多い。04年は闘病で休載。05、06年は準決勝以降を書いた。07年8月1日、尿管がんのため70歳で死去。

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