追悼連載~「コービー激動の41年」その32 寝耳に水のウエスト辞任

[ 2020年3月19日 08:15 ]

レイカーズの本拠地「ステイプルズセンター」前に置かれていたキャンドル(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】2000年にファイナル制覇を遂げたあと、突然辞任と退団を申し出たジェリー・ウエスト副社長兼GMが育った家庭は、フィル・ジャクソン監督やコービー・ブライアントと違って複雑だった。

 ウエストは6人きょうだいの5番目。長女パトリシアは14歳年上で、次いで長男チャーリー、次男デビッド、次女ハンナ、そしてウエストの下に「クッキー」と呼ばれていた末っ子で三女のバーバラがいたが、ウエストとは9歳も年が離れていた。つまり第1子と第6子で23歳も年齢が違っている「世代幅のある」きょうだいだった。

 父ハワードは石油会社や鉱山会社で電気技師を務めていたが組合活動に従事し、家庭を顧みることはなかった。ブライアントは元NBA選手だった父ジョーにバスケのてほどきを受け、ジャクソンは父チャールズに釣りやハンティングを教わり、生きるための楽しみを伝授されている。しかしウエストの父ハワードは何もしなかった。というよりほとんど何も話さなかった。ディナーでは家族全員がほぼ無言。ただ黙々と口と手を動かすだけの機械的な時間になっていた。

 おかげでウエストは早食いになる。それは大人になっても変わらなかった。ブライアントらを不愉快にさせた、せっかちな性格もそこから生まれた。家族の団らんであるはずの夕食からいかにして早く逃れるか?考えていたのはそれだけだった。母セシルも「食育」を放棄していた。「もう食べられない、というまで6日間も同じスープが出て来た」とウエストが言うくらいだから、家事はかなり苦手だったのだろう。

 問題はハワードの暴力。今なら家庭内暴力(DV)として非難の矢面に立たされるような行為を繰り返していた。9歳にしてウエストは自分の身を守らなくてはいけなくなった。殴られたあとに涙を浮かべて抵抗。「もう一方の手で殴らないほうがいい。僕はベッドでショットガンの引き金に指をかけているんだ」と勇気を振り絞って父に立ち向かったこともある。

 ハワード自身も家庭に恵まれていなかった。10歳にして母を失い、愛を感じないままに大人になった。父親になるための訓練がまるでできていなかったと言ってもいい。第一次世界大戦も経験。戦争で被った心の傷も、内面を壊す要因になった。

 「誰だって家庭を優先するだろう。でも僕の父は違った。だから憤慨した。自分はいい少年だったと思う。どんな父親でもそんな息子を持てば誇らしげになると思う。でも檻に入れられた動物のようだった。一刻もここから逃げ出したかった」。

 ウエストはジョナサン・コールマンとの共著となった「West by West(2011年刊)」で辛かった幼年期を振り返っている。ハワードはその後、組合活動に熱を入れすぎて失職。会社でもトラブルメーカーだった。新しい仕事はなかなか見つからない。ガソリン・スタンドを買い取ったもののどうやって経営していいのかがわからない。そもそも車を持っていないのに、そんな仕事をこなせるわけはなかった。

 しかし家族の中でただ1人、明るい性格の持ち主がいた。それがウエストの10歳年上で次男のデビッド。彼が持っていたラジオが三男坊のすさんだ心を癒した。聞こえてきたのはボクシングとウエスト・バージニア大のバスケの実況中継。ウエストはジョー・ルイス、シュガー・レイ・ロビンソンという人気ボクサーの名をここで知った。

 そのボクシング好きが講じて、1960年のローマ五輪に米国代表として参加したときには、ボクシングの競技会場に足を運び、彼はそこでカシアス・クレイ(のちのムハマド・アリ)という素晴らしいボクサーに出会っている。「ラジオでボクシングやマウンテニアーズ(ウエスト・バージニア大の愛称)のバスケの実況を聴いていると、世の中にもっと広い世界があることを僕に教えてくれた」。デビッドのラジオはウエストの未来の扉をこじ開けたといってもいいだろう。そしてデビッドこそが、ウエストにとって事実上の「父」となった。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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