追悼連載~「コービー激動の41年」その25 チームが崩壊した1999年

[ 2020年3月12日 08:00 ]

ニックス球団社長時代のジャクソン氏(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】1999年2月24日。レイカーズは6勝6敗の段階でデル・ハリス監督を解任し、その後はアシスタント・コーチだったカート・ランビスを次の指揮官に選んだ。

 ハリスはレイカーズでそれなりの実績を残したが、シーズン前から選手たちが誰も話に耳を傾けなくなっていた。ジェリー・ウエスト副社長兼GMはすぐにこの不穏なムードを察知。これがシーズン途中での解任劇につながった。「ウエスト自身が監督をやるべきではないのか?」。多くのメディアやファンはそう思っていた。

 ウエストは35歳で現役を引退して1976年から3シーズン、監督としてのキャリアを踏んでいる。3年間で145勝101敗。悪い成績ではない。ランビスと比べれば適任であるかのように思えた。しかし彼は自分のことをこう分析していた。「完ぺきでないと気がすまないタイプ。だから監督には向いていない」。ミスター・クラッチ(頼りがいのある選手)の異名を持ち、NBAのロゴマークのモデルにもなった人材だが、多くのエゴと直面する監督業を彼は嫌っていた。妥協を許さない自分と選手が一体化することは永遠にないと踏んでいたのだった。

 ではランビスはどうだったのか?彼の監督1年目は実に悲惨な状況に陥っていく。労使紛争開けでレギュラーシーズンが82試合から50試合に短縮されたこのシーズン。開幕前にはマイケル・ジョーダンの「2度目の引退」という大きな話題もあった。そして1999年3月10日、レイカーズはエディ・ジョーダンとエルデン・キャンベルをホーネッツに放出し、シューターのグレン・ライス(当時31歳)を獲得。このシーズンとしては最大級のトレードとなった。

 しかしこれがランビス新監督を奈落の底に突き落とす結果になってしまった。オニール+ブライアント+ライス=ビッグ3?いや、そうはならなかった。「あいつは大学を経験していないからプレーが未熟だ」とシャックはコービーを批判。さらに新加入のライスがランビスに「スクリーンを増やして自分がシュートを打つチャンスを増やしてほしい」と要求したことを知ると、「オレは壁じゃない。そんなことをするならここから出て行く」とトレードを志願したのである。

 コービーを含めたこの3人はほとんど口をきかなかったと伝えられている。どんなにすぐれた選手をそろえても、これではチームとしてのまとまりはない。ランビスは3人の間に入る形でコミュニケーションをとった。これだけでひと苦労である。さらに他の選手とその家族に、うまくいかない主力3人の動向を説明する役目まで負わされた。だから本来の仕事である戦術面は置き去りにせざるをえなかった。

 監督に就任して24勝13敗。よくこの状態で勝ち越したとも思うが、プレーオフでは結局、西地区準決勝でスパーズに4戦全敗で敗れ去った。まさに不協和音の絶えないシーズン。メディアもランビスを長期政権が確約された指揮官だとは思っていなかった。だからAP通信などは就任時から、別角度の取材を行っている。そこに出てきたのがトッド・マスバーガーという代理人。「仮定の話には答えられないが、私のクライアントはこの件については注意深く見守ってますよ」という受け答えがレイカーズ・ファンの注目を一気に集めた。

 彼が語ったクライアントとは、すでにブルズの指揮官を退いていたフィル・ジャクソン(当時53歳)のこと。レイカーズが指揮官の人材難に直面していたとき、偶然にもジョーダンやスコッティー・ピッペン、デニス・ロッドマンらを擁してファイナルを6度制した実力派が1人、リーグの“人材バンク”の中に残っていたのである。そしてコービーはこれまで出会ったどのタイプにも当てはまらないリーダーの下で新たな挑戦を始めることになった。(敬称略・続く)
 
 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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