×

競技人口、観客増を実現 澤は女子サッカー低迷期から支えた功労者 

[ 2015年12月17日 11:03 ]

アジア勢初となる「女子最優秀選手」に選出された日本代表・澤穂希(左)と3年連続で「FIFAバロンドール」に選出されたアルゼンチン代表のメッシ(AP)

澤が引退発表

 澤穂希は、マイナーだった女子サッカーに光を当てた。主将として得点王とMVPにも輝いた11年のW杯ドイツ大会優勝。東日本大震災に沈む日本に希望と勇気を与え、なでしこジャパンは国民栄誉賞を受賞した。準優勝した今年のW杯カナダ大会では史上最多6度目のW杯出場を果たした。

 天才少女が女子サッカーの未来を切り開いた。81年に女子日本代表が初結成。選手の遠征費が自己負担なら指導者もボランティアで、更衣室もないグラウンドで練習した草創期だった。そんな時代を経て12歳で強豪の読売(現日テレ)に入った澤は15歳で代表デビューした。当時の93年はJリーグ発足でサッカー人気に沸き、Lリーグ(現なでしこリーグ)も企業の後押しを受けていた。

 だが、苦難が訪れる。96年アトランタ五輪1次リーグ敗退。00年シドニー五輪の出場権を逃すと、スポンサー企業が次々と撤退。廃部が相次いだ女子サッカーは「協会のお荷物」とやゆされた。代表活動での日当が削られるなど厳しい環境が続き、99年に日テレとのプロ契約が打ち切られた澤は、帝京大を中退して米国に新天地を求めた。機敏な動きで「クイック・サワ」の異名を取ったが、03年にリーグが消滅。帰国を余儀なくされた。苦しい中でも、04年アテネ五輪のアジア予選ではケガを押して出場。08年北京五輪では「苦しくなったら私の背中を見て」とチームメートを鼓舞したこともある。苦難を乗り越えW杯優勝、ロンドン五輪銀メダルへと突っ走った。代表通算205試合83得点という金字塔は、努力の結晶だった。

 「夢は見るものではなく、かなえるもの」。冬の時代を知る澤は、常々語る。W杯優勝前の10年と比べ、日本の女子登録選手は現時点で約1万人以上も増え、4万8300人に上る。1試合平均1000人に満たなかった国内リーグの観衆も、今では2000人を超えるなど人気を押し上げた。澤がいなければ今の女子サッカーはない。その功績は永久に不滅だ。

続きを表示

2015年12月17日のニュース