甲子園の夏 阿久悠さんは修行僧だった 息子の視点から回想した書籍が話題に

[ 2019年8月17日 05:45 ]

父の阿久悠さんについて話す深田太郎氏
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 2007年8月に亡くなった作詞家、阿久悠さん(享年70)の生前の姿を、息子の視点からつづった書籍が刊行され、話題になっている。長男の深田太郎氏(54)が父親の日常や仕事ぶりを振り返った「『歌だけが残る』と、あなたは言った――わが父、阿久悠」(河出書房新社)。常に五感を研ぎ澄まし、寝る間を惜しんで仕事や趣味のスポーツ観戦に没頭していた阿久さんの姿が明かされている。

 太郎氏は「家でも深田公之(ひろゆき、阿久さんの本名)ではなく、ずっと阿久悠。24時間、スイッチオンでした」と回想。中でも、この時期に打ち込んでいたのがスポニチ本紙連載「甲子園の詩(うた)」。夏の甲子園の期間中、全ての試合を自宅でテレビ観戦し、最も印象に残った試合の詩を本紙に寄せていた。

 「テレビから目を離したくないと昼食は丼物かおにぎり。試合中はトイレも行かない。これを2週間続けるんだからまるで修行僧のようでした」

 阿久さんにとってのベストゲームは何だったのか。太郎氏が挙げるのは79年8月16日の箕島―星稜戦。延長18回、3時間50分に及ぶ球史に残る熱戦で、詩のタイトルは「最高試合」。太郎氏は「父はよく“最高という言葉が使えるのは一回だけ”と言っていました」と、最高という言葉を唯一、題名に掲げていることが理由と明かした。

 自身が一番思い出深いのは、連載の最終回となってしまった06年8月21日の早実―駒大苫小牧戦。斎藤佑樹、田中将大の投げ合いに「最後の仕事でスターが誕生した。結果としていい終わり方でした」と感慨に浸った。

 阿久さんは2年前に没後10年、作詞家生活50周年、生誕80年を一気に迎え、さまざまな催しが開かれた。太郎氏はその関連の取材を受ける中で「幼少期からのいろいろなことを思い出して、何か一つでも父親との思い出を形にできないかと思いました」と、十三回忌に向けて著書を書き上げた。父の素顔は優しく穏やか。「子供のつたない話にも最後まで耳を傾けてくれた」と、聞き上手だったとも明かした。

 ▽甲子園の詩 1979年にスタート。全試合を見て、その日最も印象に残った試合の詩を翌日の紙面に掲載する連載。阿久さんの体調不良で04年は休載し、05、06年は準決勝と決勝のみ詩を書いた。全363編。その多くは無名の敗者に対するメッセージだった。太郎氏によると、全試合を見ることは阿久さん自身で決め、観戦中はスコアブックも付けていた。箕島―星稜戦の詩は試合4日後の79年8月20日付紙面に掲載された。

 ▽箕島―星稜戦 79年8月16日の3回戦。1―1で延長戦に突入。箕島は12、16回に失点したその裏の攻撃、2死無走者から本塁打で同点に追いつく奇跡的な粘りの末、18回裏にサヨナラ勝ち。勝ち上がった箕島は史上3校目、公立校として唯一の春夏連覇の偉業を達成した。

 ◆阿久 悠(あく・ゆう)本名深田公之(ふかだ・ひろゆき)。1937年(昭12)2月7日生まれ、兵庫県出身。明治大卒。64年に「阿久悠」のペンネームでテレビ番組の台本を書き始める。65年、田辺昭知とザ・スパイダースの「モンキー・ダンス」で作詞家デビュー。71年、作詞した「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)で日本レコード大賞を初受賞。大賞は通算5曲で作詞家最多。映画化された「瀬戸内少年野球団」の原作小説も執筆。07年8月1日、尿管がんのため死去。

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