菅原文太さん死す 健さん追うように…07年膀胱がんもスター貫く

[ 2014年12月2日 05:30 ]

69年、たばこをくわえながらポーズをとる菅原文太さん。昭和の映画スターがまた一人天国へと旅立った

 「仁義なき戦い」「トラック野郎」シリーズなど、数々の名作に主演して日本映画史に大きな足跡を残した俳優の菅原文太(すがわら・ぶんた)さんが11月28日午前3時、転移性肝がんによる肝不全のため東京都内の病院で死去した。81歳。仙台市出身。既に福岡県の太宰府天満宮祖霊殿で家族葬が営まれた。高倉健さんに続くスター俳優の急逝に映画界だけでなく、列島が悲しみに包まれた。

 健さんを悼む声が収まらない中で飛び込んできた文太さん逝去の報。東映が任侠映画から実録路線にかじを切った際に健さんに代わってトップに就いたのが文太さん。日本映画界は相次いで2つの柱を失った。

 文太さんは07年に膀胱(ぼうこう)がんを発症し全摘出を勧められた。親交のあった鎌田實(みのる)医師(66、諏訪中央病院名誉院長)に相談した際、「おしっこ袋をぶら下げて生き延びたとしても、それは菅原文太じゃない」と手術を拒否する意向を明かし、結局、膀胱温存療法を選択。本人が「完治した」と思うほど効果を見せた。

 再発が危惧される5年間も過ぎ去ろうとしていた12年末に今度は肝臓にがんが見つかった。関係者によると、2カ月ほど前には「余命半年」と告知されていたという。

 家族にみとられ穏やかに逝った文太さんは故人の遺志で、陸路で太宰府天満宮に搬送された。“学問の神様”菅原道真をまつった神社。同じ「菅原」姓のよしみで、文太さんは同宮の神徒会に入会。納骨堂と墓所の土地も購入しており、文子夫人が喪主を務めて同所で家族葬が営まれた。

 新東宝から58年にデビューした文太さんは、同社倒産後、松竹を経て東映に入社。73年に始まる「仁義なき戦い」と、75年にスタートした「トラック野郎」の両シリーズで日本を代表する俳優に躍り出た。その後も活躍は続いたが、俳優の道に進んだ長男加織さんが01年10月に31歳の若さで、電車の踏切事故で死去してから映画出演が激減。それでも山田洋次監督(83)に誘われて「東京家族」(13年公開)への主演を決めたが、撮影前に東日本大震災が発生。「いまは映画を撮っている場合じゃない」と降板し、その後ずっと被災者に寄り添い続けた。

 震災後、久々に公の場に姿を見せたのが11年5月の岡田茂東映名誉会長の通夜の席。「大木が倒れた。岡田さん、もうけんかもできなくなりましたよね」と、遺影に向かって語り掛ける姿が参列者の胸を締め付けた。

 12年11月に俳優引退を宣言する以前から、文太さんは教育問題に関心があり、81年にガッツ石松らと「雷おやじの会」を結成するなど、社会・教育活動に積極的に参加していた。98年に東京から岐阜県清見村(現・高山市)に転居。晩年は山梨県北杜市で農業に従事する一方、有志らと国民運動グループ「いのちの党」を結成し、「健康と食」をテーマに全国を講演して回っていた。今年11月1日に沖縄県知事選で翁長雄志(おなが・たけし)候補の応援に立ったのが、最後の公の場となった。

 長男の加織さんの墓も太宰府天満宮にある。愛息と同じ場所で文太さんは永遠の眠りに就いた。18日前に旅立った健さんといまごろ天国で再会していることだろう。

 菅原 文太(すがわら・ぶんた)1933年(昭8)8月16日、宮城県仙台市生まれ。早稲田大学中退後、劇団四季に1期生として入団。57年に日本初の男性専門モデルクラブを設立。ショーなどで活躍しながら、58年に映画「白線秘密地帯」に出演。東映の看板スターとなった一方、「獅子の時代」(80年)などNHK大河ドラマにも出演。長男を事故で亡くし、家族は妻と娘2人。

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