デビューはモデルだった 「仁義…」で不動のアンチヒーローに

[ 2014年12月2日 05:31 ]

72年3月、「現代やくざ・人斬り与太」・公開撮影に臨む菅原文太さん
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 仙台市に生まれた菅原文太さんは幼いころに両親が離婚し、父と義母に育てられた。小学生の時には戦争で疎開を経験した。

 芸能界でも下積み時代が長かった。早大を中退し、アルバイトを転々とした後、いとこの紹介でファッションモデルとしてデビュー。その後の武骨なイメージからは想像しにくいが、当時の“売り”は1メートル78の長身と精かんなマスク。雑誌「男の服飾」(後のメンズクラブ)の初代メーンモデルを務め、映画にも出演。58年に東京・銀座の喫茶店で新東宝の宣伝マンにスカウトされ、長身二枚目俳優を集めた4人組“ハンサム・タワー”の名称で売り出された。

 しかし、新東宝が2年で倒産。移籍した松竹ではソフトな作風が合わず、活躍の場を求めて67年に東映入社。ここで、ようやく個性を開花させる。

 当時は高倉健さんや鶴田浩二さんが主演する任侠映画の全盛期。主人公が悪を切る様式美の世界が描かれていた。そこに73年に公開された深作欣二監督の「仁義なき戦い」で“殴り込み”。実話を基に、徹底的にリアルに描かれた暴力団の抗争の中で、ぎらぎらした野獣のような人物像をつくり出した。その根底には、自身の戦争の記憶や貧乏生活を生き抜いてきたエネルギーがあった。

 映画は興行的にも大成功。高度成長の波に乗れない大衆の鬱憤(うっぷん)を晴らしたと高く評価された。文太さんも邦画では珍しい、アンチヒーローとしてスターの座を不動のものにした。

 「トラック野郎」で演じた豪快な運転手も酒とけんかに強いが、女にはからきし弱い独身男。庶民的なキャラクターは、盆と正月の年2回興行で「寅さん」と張り合うほどの人気だった。

 アウトローを演じ、時流に逆らい続けてきた文太さん。型破りな映画スターだった。

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