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気がつけば40年(15)1985年ドラフト 巨人にフラれた清原は西武の背番号3を選んだ

[ 2020年9月8日 08:00 ]

失意のドラフト会議から6日後、西武との初交渉に臨んだ清原。1985年11月27日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】1985年11月20日、東京・九段のホテルグランドパレスで開かれたプロ野球のドラフト会議。司会の「パンチョ」こと伊東一雄パ・リーグ広報部長のかん高い声が響いた。

 「第1回選択希望選手 読売 桑田真澄 17歳 投手 PL学園高校」

 報道陣用に用意された宴会場が大きくどよめいた。読売(巨人)は同じPL学園でも甲子園通算13本塁打を放った清原和博じゃなかったのか。

 早大進学を表明していた桑田の単独指名。西武がちらつかせていた1位・清原、2位・桑田のダブル獲りを阻止するためだったのかもしれないが、いずれにしても清原より桑田を高く評価したのである。

 巨人を熱望していた清原は南海(現ソフトバンク)、日本ハム、中日、近鉄、西武、阪神の6球団が1位指名で競合。抽選の結果、西武の根本陸夫管理部長が交渉権を獲得した。

 抽選に外れたのならともかく巨人は自分ではなく、あろうことかチームメートの桑田を指名したのである。清原はショックを隠せず、会見の席で涙を浮かべた。

 18歳のスラッガーに残酷な試練を与えた「KKドラフト」の夜、私は大阪へ飛んだ。翌朝から富田林のPL学園に詰め、時に八尾市の桑田の実家へ回った。

 携帯電話はまだ大きく、肩からかけていた時代。100円玉が使える自動車電話付きのハイヤーを1日借り、会社と連絡を取った。電話代だけでも1万円くらいかかった。

 桑田が早大教育学部体育学専修特別選抜試験を受けるため、結果的には早大に断りを入れるために上京した23日。富田林は急に静かになり、清原の実家に電話をかけた。

 「今から伺ってよろしいでしょうか?」と聞いたら、父・洋文さんに「来んといて下さい。仕事になりまへんのや」と断られた。

 だが、それではこちらの仕事にならない。受話器を置いて、すぐ電車に乗った。門前払い覚悟で岸和田市の清原電気商会を訪れると、洋文さんは嫌な顔一つせず店の奥の居間に上げてくれた。

 店にある2台の電話は鳴りっぱなし。洋文さんが電話に対応しているときは、母・弘子さんが代わって相手をしてくれた。

 「僕は巨人を担当しているんですけど、その前は西武を担当してました。僕が知ってることは何でも話しますから聞いて下さい」

 そう話すと、弘子さんは「根本さんという方はどんな方なんですか?」と聞いてきた。

 「みなさん凄い方だとおっしゃるんですけど、どんな方かと…。お受けするにしても、お断りするにしても、一度お目にかかりたいと思っているんです」

 清原は保険として日本生命の内定をもらっていたが、「根本さんに会いたい」という話を聞いて西武を断ることはないと思った。

 当時の西武には「1」と「3」、さらにスター選手の田淵幸一が引退して空いたばかりの「22」といい番号が3つ残っていた。その話を向けると弘子さんは――。

 「和博は3がいいと言うてました。1はねえ…。パ・リーグのことは何も知らないので、22にはピンと来てないと思います」

 「1」は自分を振った巨人・王貞治監督の背番号。「3」は高校時代ずっと着けた愛着のある番号だった。

 他にもいろいろ話を聞かせてもらい、手ぶらで伺ったのにかつ丼までご馳走になった。

 清原家が初交渉のテーブルについた11月26日。背番号3の話を書かせてもらった。12月7日の第2回交渉には根本管理部長が清原の大好きなケーキを手土産にやってきた。

 その5日後の12月12日、東京・東池袋のサンシャインプリンスホテルで入団発表が行われた。清原が初めて袖を通した西武のユニホーム。背中には「3」が縫い込まれていた。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの64歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍でライブの予定が立っていない。

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