【タテジマへの道】坂本誠志郎編〈上〉幼少期に育まれた“好奇心と観察眼”

[ 2020年5月9日 15:00 ]

養父カープ時代、兄・剣志郎さん(右)と肩を組む坂本誠志郎

 スポニチ阪神担当は長年、その秋にドラフト指名されたルーキーたちの生い立ちを振り返る新人連載を執筆してきた。今、甲子園で躍動する若虎たちは、どのような道を歩んでタテジマに袖を通したのか。新型コロナウイルス感染拡大の影響で自宅で過ごす時間が増えたファンへ向けてスポニチ虎報では、過去に掲載した数々の連載を「タテジマへの道」と題して復刻配信。第14回は15年ドラフトで2位指名された坂本誠志郎編を2日連続で配信する。

 JR大阪駅から電車を乗り継いで約3時間の場所に兵庫県北部の養父駅がある。養父市は人口は約25000人の小さな町だ。無人駅の改札の先に広々とした空が広がっていた。誠志郎が生まれ、養父中学校を卒業する15歳までの過ごした自然豊かな街並みは当時と変わらない。実家の前の道路を挟んだところに自営の小さな畑もあった。

 1993年11月10日。誠志郎は養父市内の病院で産声を上げた。体重は3612グラム。丸々とした男児だった。幼稚園も小学校も自宅から3キロほど離れた距離にあり、2歳上の兄・剣志郎さんに小さな手を引かれ、毎日片道1時間の道のりを歩いた。冬には大人の膝元まで積もるという雪の中をかき分けて歩き、自然と足腰も鍛えられた。小、中学校では毎年、無欠席で皆勤賞をもらう活発な男の子に育った。

 保育園に通う4、5歳児の頃、自宅でリフォーム工事があった。誠志郎は大工職人たちが汗を流す現場の隅で何時間もじっと作業を眺めていたという。図面をのぞき、組み立て作業を観察しては「どうやって組み立てられるの?」と職人を質問攻めにした。一日のことではない。毎日だった。

 そのうちに見るだけでは済まなくなった。小さなハンマーと木片を持ち出し、見よう見まねで作業も始めた。熱心な“大工見習”は工事を取り仕切っていた棟梁(とうりょう)からも「将来はウチに弟子入りやな」とほれ込まれたほどだ。まんざらではなかったのか。本人も将来の夢を「大工さん」と話した。好奇心や研究心、観察眼は幼い頃からあふれていた。

 小学校へ入学後、地元の少年野球チーム「養父カープ」に入団。練習が休みの日は自宅で父や兄とテレビでスポーツ観戦をすることが日課だった。熱心に見入ったのは野球に限らない。プロバスケットリーグ・NBAや欧州サッカーリーグなど競技を問わず、海外スポーツに関心を寄せた。

 テレビ画面を見るだけではない。兄と「この場面だったら、ここにパスを出すな。こうすれば点が入ると思う」と意見を戦わせた。いつの間にか父・龍二さんも加わって男3人でスポーツ談議することが日常だった。

 一番年下でも遠慮はなかった。父は「サッカーの試合なんか見てて、自分がこうだというと、子供ながらに『自分はこう思う』と意見をぶつけてくるんです」と懐かしんだ。

 明大野球部が作成した選手プロフィルの趣味欄に誠志郎は「人間観察」と書き込んでいる。履正社、明大、大学日本代表の各世代で正捕手の座をつかみ、明大・善波達也監督が最大の魅力とした「観察力」の源流はそんな幼き日々にあった。

 地元の少年野球チーム「養父カープ」に入団したのは誠志郎が小学1年生の時。兄の剣志郎さんが先に入団していたので迷うことはなかった。もともと、全校生徒も何十人という規模の地区だけに他のスポーツチームも少なく、野球に没頭できる環境だった。

 小学3年で捕手デビュー。同チームのコーチを務めていた父・龍二さんも「何とも言えないただずまいというか。マスクをして座っている姿も、なかなか様になっているな」と感じていたという。まだポジションが定まっていない時期から、「僕はキャッチャー向きなのかな」と将来の姿をうっすらと描いていた。

 好投手として鳴らしていた兄との「坂本兄弟バッテリー」が実現。最初は小さな捕手の方が注目されることはなかった。だが、地区大会、県大会と勝ち進むにつれて「坂本兄弟」の名は地域でも有名になっていき、地元紙から取材を受けたこともあった。

 勝ち試合の後はお互い功を誇り合うのが坂本家の日常だった。「オレのピッチングが良かったから勝ったんだ」と兄が言うと、弟は「お兄ちゃんは投げてるだけでしょ。僕のリードのおかげだね」とすかさず言い返す。兄弟バッテリーの“かけあい漫才”を側で見守る両親も、目を細めながら2人の成長を心から願い続けた。

 当時はとにかく食が太く、肉料理が大好き。啓子さんから食べ過ぎを心配され、途中で取り上げられると泣き出すこともあった。身体もひときわ大きく、貫禄さえ感じさせるグラウンドのたたずまいに、チームの保護者や関係者からは「子供監督」とあだ名をつけられたことも。「とにかく足は速くなくて。身体もふっくら、ぼこぼこしていて。それでも地肩はやはり、周りと比べても強かったですね」と父は言う。学校のドッヂボールでは先頭に立って、一人でゲームを展開するような独壇場。力の強さは抜きんでていた。

 捕手としての才能は誰もが認めるところだったが、「全部のポジションをやってみたい」と好奇心旺盛だった。遊撃や、兄が小学校を卒業してからは投手も経験した。持ち前の観察力は走者としても発揮され、「足は並よりも少し遅いくらいだったけど、盗塁はうまかった。投手がけん制しないと思ったら、サインも出てないのに勝手にスタートして決めちゃうんですよ」。自分で考え、己の判断を大事にプレーするスタイルはこのときすでに芽生えていた。

 のびのびと育った6年間を経て、養父中に進学。同校野球部でのプレーを選択した。田舎の中学校だけに、“全国”という高いレベルを体験することも限られる中、大きな意識改革をもたらしてくれたのは兄だった。 

 中学進学時、複数のシニアチームから誘いがありながら誠志郎は地元の養父中学の野球部へ入った。「少年野球の仲間と中学でも野球をやりたい」。それに2学年上に兄・剣志郎さんもいた。1年生の新入部員の立場でエースだった兄とバッテリーを組むことは一度もなくても、背中を追い、ともに汗を流した。

 中学校生活が重なったのは1年間だけ。地元で好投手として鳴らした兄は卒業後、県内屈指の強豪校、報徳学園へ進んだ。周囲の期待は高かった。弟もまた「兄がどんな活躍をしてくれるのだろう」と胸を高鳴らせた。

 しかし…。

 甲子園常連の強豪校は甘い世界ではなかった。これまで経験したことのなかった練習量や厳しさを味わい、周囲にひしめくライバルたちの底知れぬ実力を肌で感じた。入学から数カ月で6キロも体重が落ちるほどの心身の消耗を電話での近況報告で誠志郎は伝えられた。

 言葉で聞いただけではない。報徳学園の練習見学にも足を運んで自分の目でも確かめた。「このままではいけない。もっとやらないと、周りにおいていかれる」。幼い頃から憧れと尊敬の対象だった兄でさえ悩み、苦しむ世界を知り、言いしれぬ危機感を抱いた。

 「あの頃から少しずつ『なんで』というところや、一つ一つに考えを持って練習をやろうという気持ちが出てきた」

 2年生へ進級後、より野球に真摯(しんし)に取り組むようになった。変化は練習後の過ごし方に如実に表れた。帰宅後も夜間に欠かさずランニングをするようになり、バランスボールを使った体幹トレも始めた。

 自宅駐車場にあった素振り用スペースにはホワイトボードを設置して練習で指導されたことや自分で気付いたことなどを子細に書き込み、反復練習に励んだ。小学校時代は丸々としていた体格も引き締まり、父・龍二さんも「見違えるようになった」と驚いた。

 報徳学園でも投手を続けた兄は3年間の奮闘及ばず一度も背番号をもらえないまま高校野球を終えた。在学中に報徳学園が春夏3度出場した甲子園でもアルプス席から声をからしていた。養父中学では但馬地区大会3連覇を果たすなど、どんなに活躍しても誠志郎の気持ちが緩むことがなかったのは、「あの兄でも…」の思いが常にあったからだ。

 3年生でチーム事情から投手を務めても「周りにもっとすごいやつがいる」と冷静に自分を分析し、「道はキャッチャーしかない」と両親に伝えた。そんな折、誠志郎の捕手としての素質を認めて誘ってくれたのが大阪の強豪校、履正社だった。迷いはなかった。兄が身をもって教えてくれた全国レベルの野球に挑む時が来た。小さな田舎でひたすら自己研さんを積んできた成果を発揮する時が来た。(2015年11月2日~4日掲載、一部編集、あすにつづく)


 ◆坂本 誠志郎(さかもと・せいしろう)
1993年(平5)11月10日生まれ、兵庫県出身の21歳。小1から野球を始める。履正社では1年秋から正捕手で、2年夏と3年春に甲子園出場。明大では1年春からリーグ戦に出場し2年春と秋にはベストナインを獲得。高校、大学、大学日本代表で主将を務めた。1メートル76、78キロ。右投げ右打ち。

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