【内田雅也の猛虎監督列伝(19)~第19代・後藤次男】晴れ舞台から奈落へ落ちた「仏のクマさん」

[ 2020年5月9日 08:00 ]

1978年2月、安芸のタイガータウンで選手の動きを見守る阪神・後藤監督

 後藤次男は「ネクタイは肩が凝るね」と苦笑して、ひな壇に座った。1977(昭和52)年11月2日、大阪・梅田の阪神電鉄本社6階の会議室での監督就任会見。前回68年の監督就任時は発表は大阪、後藤本人はキャンプ地の高知・安芸にいた。クマさんにとって初めての晴れ舞台だった。

 吉田義男の辞任後、10月28日に球団代表・長田睦夫から要請を受けた。翌29日、亡父、亡兄の法要で帰った故郷・熊本で80歳の母・アキに報告した。「あの強い巨人と戦うなんて。いまさら監督なんて引き受けんでほしい」と心配する母も「もう大人だし」と強く反対はしなかった。

 水面下で球団は藤村富美男を総監督に据える構想を描き、後藤への要請前に内諾を得ていた。だが、66年の総監督・藤本定義―監督・杉下茂という二頭政治の失敗を目の当たりにしている後藤は「それなら引き受けられない」と反発した。長田は藤村について「現場には一切口を出さない。私的な相談役」と無報酬・非常勤の球団社長付アドバイザーで落ち着いた。

 9年ぶりに復帰した後藤は前任の吉田とは正反対ののんびりムード。「和」や「明るさ」を売り物にした。78年のキャンプでキャッチフレーズを聞かれ「みんな仲良くボチボチと」と答えた。

 そんな空気で突入したシーズンは史上最悪の泥沼に迷い込んだ。要因はいくつかあるが、山本和行の先発希望を受けいれたため、代わる抑えのエースが不在。「全員先発・全員抑え」の無計画な起用で投手陣が崩壊していた。5月に9連敗して最下位転落し以後浮上しなかった。6月は4連敗に7連敗で5位に11ゲーム差と、球団史上初の最下位が確定的となった。

 電鉄本社は素早い対応を見せた。6月に野田忠二郎に代わり社長に就いた田中隆造が専務・小津正次郎に「これではダメやな。次の監督を探せ」と命じた。玉置通夫『これがタイガース』(三省堂書店)にある。

 小津が目をつけたのはヤクルト監督・広岡達朗だった。厳格で妥協を許さぬ姿勢はだらけきったチーム再建にもってこいだった。しかもオーナー・松園尚巳との関係悪化で退団がうわさされていた。<早大OBの球団職員に招へい工作をさせた>と当時資料部長・奥井成一が『わが40年の告白』(週刊ベースボール)に書いている。だがヤクルトは快進撃を続け、10月4日に初優勝。広岡獲得は幻に終わった。

 球団は長田の指示で8月25日、球団常務・岡崎義人を委員長に営業部長・大津淳ら5人の「再建委員会」を発足させ、26日から9月8日まで大阪・福島の佐藤旅館で8回の極秘会談を行った。番外編で触れたが、自身も委員だった奥井が『――告白』で明かしている。

 委員会はOBの田宮謙次郎を新監督候補とする報告書を上申した。9月18日、大津が田宮に電話で約束を取り付け、20日に小津が田宮と会って監督を要請した。29日には受諾している。自身が経営する会社の責任者を決め、所属する放送局も円満退社の準備を整えた。

 <ところが10月1日になって事態は一変する>。小津が田宮に「すべてを白紙に戻してもらいたい」と申し入れたのだった。<オーナー代行(田中)の変心しか考えられない>と奥井は書く。藤村排斥運動(56年)や10年選手制度での大毎(現ロッテ)移籍(58年)の禍根が尾を引いていた。

 球団最低勝率3割3分9厘でシーズンを終えた翌10月9日、後藤はホテル阪神で辞任会見を終え、番記者と喫茶室で雑談した。マスコミは人柄のいい「仏のクマさん」に同情的で、痛烈な批判はなかった。「疲れたよ。早く帰らないと。女房が待ってる」。子どもはなく、西宮市三保町の自宅で妻・喜美子と二人暮らし。下戸で「こんな時、酒でも飲めたら」と心を痛めていた。

 後藤退任とともに、球団上層部も刷新された。陰の実力者だった田中はオーナー、小津は球団社長と表舞台に立った。

 小津が新監督に選んだのはドン・ブラッシンゲーム(ブレイザー)だった。南海で現役を終えた後コーチ、同年限りで広島のヘッド兼守備コーチを退き、米セントルイスの自宅に帰っていた。=敬称略=(編集委員)

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