猛虎人国記

猛虎人国記(65)~和歌山県(中)~ 39勝に3割の豪傑 真田重蔵

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 センバツは和歌山から―という大会発祥の逸話がある。選抜大会は1924年(大13)に産声をあげた。15年に夏の全国大会が始まり人気沸騰。大会新設の声が高まるなか「最強チームを選抜」という着想の主が大阪毎日新聞和歌山支局長の安井彦三郎だった。野球は素人で、助言者に和歌山中(現桐蔭)OBで後援者の出来(でき)助三郎がいた。また夏の大会創設を主唱したなかに和歌山県笠田町出身で大阪朝日新聞記者の田村木国(もっこく)(本名・省三)もいた。全国屈指の野球熱がうかがえる。

 和中(わちゅう)は夏第1回大会から14年連続出場。井口新次郎らの猛打で21、22年連覇。小川正太郎の快投で27年選抜を制した。

 打倒和中に燃えた海草中(現向陽)は29年夏、初出場で準優勝。39年夏は嶋清一が全5試合完封、準決勝・決勝ノーヒットノーランで優勝。三塁手だった真田重蔵(重男)は翌40年、投手で連覇を果たした。

 43年プロ入り。朝日を振り出しに兵役をはさみ実働12年間。阪神には最後の5年間在籍した。縦割れのカーブは「懸河のドロップ」と呼ばれ、50年松竹で今もセ・リーグ記録の39勝。優勝を決めた試合は自ら3ランを放ち完封した。阪神移籍後の52年には自身2度目のノーヒットノーラン。同年まで3年連続3割と強打を誇り、56年は打者に転向して現役を終えた。

 引退後はスポニチ評論家。総務部に残る社内野球大会の歴代本塁打一覧に名前を見つけた。58年から明星の監督を務め、63年夏に全国制覇。優勝投手・優勝監督の第1号となった。後に阪急、近鉄コーチで和中出身の監督・西本幸雄を支えた。

 夏の甲子園大会は41年予選直前に中止となり、真田は<3連覇の夢も消え去りました>と『和歌山県中等学校・高等学校野球史』に手記を寄せている。42年、大会史に残らない文部省主催「幻の甲子園大会」も予選2週間前に下った年齢制限で真田は出場できなくなった。急造で投手を務めたのが3年生左翼手・辻源兵衛。結(ゆい)踏一朗(とういちろう)『わかれは真ん中高め』に詳しい。辻は44年、2歳下の三塁手・川北逸三とともに阪神入りした。

 向陽出身ではコーチ、監督代行(96年)で在籍した柴田猛がいる。

 和中出身で阪神入りした選手はいない。西村(伊沢)修は学制改革で桐蔭となった48年夏の甲子園で準優勝した本格派左腕。決勝・小倉戦は無念の押し出し死球で0―1と敗れた。本名は伊沢で、47年春夏と海草中で出場。学区制変更で西村家の養子となり、桐蔭に移った。49年春も出場。同年、2リーグ分立で主力選手を引き抜かれた阪神が巨人に頼み、交渉権を譲ってもらった。2年目51年、開幕2日目の松竹戦で1失点完投し、期待されたが、左肩故障で4勝に終わった。強打の冷水(しみず)(竹中)美夫も同じく海草中―桐蔭の越境組。阪神では本名の冷水で登録した。

 海南中(現海南)も伝統校。41年選抜に一塁手で出た小林英一は先の辻とともに44年入団。二塁・遊撃や捕手もこなした。48年、内野手不足から海南日東紡の内山清を7月に獲得。打力不足で本来の投手に戻った。登用した監督・若林忠志移籍直後の50、51年と開幕投手を務めた。通算31勝。引退後は埼玉県で川口工、市立川口監督を務め、斎藤雅樹(巨人)らを育てた。

 野上町(現紀美野町)の大成から西五十六は54年入団。56年に唯一の白星がある。弟・三雄は大毎などで26勝。その甥(おい)に現日本ハムコーチの西俊児がいる。椎木孝彰は2試合に登板の記録が残る。同校は08年、海南と統合、同校分校舎となった。=敬称略=

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