猛虎人国記

猛虎人国記(46)~東京都(下)~ 2度の「恨み」乗り越えた猛虎愛 田淵幸一

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 田淵幸一はかつて抱いた阪神への負の感情をぬぐいさっている。自著『タテジマ』で<恨んでいた自分がばからしく思える>と書いた。阪神への恨みは2度あった。

 最初はプロ入りの時である。法政大で長嶋茂雄(立教大)、広野功(慶応大)の8本を大きく上回る東京六大学新記録の22本塁打。注目された1968年(昭43)のドラフトは事前に「巨人以外なら社会人に行く」と宣言して迎えた。夏には田園調布の長嶋の自宅に招かれ、秋には監督・川上哲治から赤坂のふぐ料理店で「背番号2を用意している」と聞いていた。

 ところがドラフトでは指名順が先だった阪神が予告なく1位指名し、交渉権を獲得。当初は入団を拒否し、巨人はトレードでの譲渡も計画にあったとされる。巨人との極秘会談は報道陣に発覚し、流れた。ルール通り、阪神入りを決めた。入団後はONら巨人に立ち向かう闘志をかき立てた。

 次いでは78年11月14日深夜のトレード通告だ。「ユニホームを脱ぐことも考えている」と語り、独りで泣いた。<でもおかげで西武に移籍して2度の日本一を経験できた>。当時球団社長・小津正次郎が語った「将来、阪神の監督、コーチとして戻ってくるために勉強して来てほしい」は、02―03年の打撃コーチで現実となった。阪神OB会長の後、楽天でコーチを務める今も田淵は阪神を愛しているのである。

 東京・豊島区目白に生まれ、育った。法政一時代「もやし」「キリン」と呼ばれていた。身長は1メートル80以上あったが体重は70キロあるかないか。71年に患った急性腎炎で太る体質に変わったそうだ。甲子園には縁がなかった。3年最後の夏も準々決勝・日大二戦で自身は本塁打を放ったが、逆転負けしている。

 東京出身では異色の監督、岸一郎がいる。1894年(明27)、福井県敦賀市生まれ。旧制早稲田中から早稲田大、満鉄と左投げの投手だった。1年だけ神戸高商の監督を務め、この時の選手に小柴重吉(後の阪神2軍監督)がいる。この後、台湾の満鉄関連会社に勤務し、戦後は郷里の敦賀に帰っていた。

 プロ経験がなく、球界から遠ざかっていた岸が阪神監督に就いたのは54年11月24日。松木謙治郎退任を受け、本命の藤村富美男を退けての起用は誰もが青天のへきれき。オーナー(電鉄本社社長)・野田誠三の独断だったとされる。

 岸は野球に関する論文を本社の野田宛てに頻繁に送っていた。生前、「阪神の生き字引」と呼ばれた奥井成一は<満鉄にいた関係で鉄道省あたりから押しつけられた>と推察していた。

 「若手をどんどん使っていく。当たらなければ藤村でも休ませる」と強気だった岸に、ベテラン勢が反発した。開幕後はマスコミやファンも痛烈に批判した。1年目、55年5月21日には休養となった。不可解な人事が招いた汚点であった。

 指導者では1軍打撃やチーフコーチ、2軍監督も務めた石井晶がいる。足立(現足立学園)から東京鉄道管理局、阪急では4番も打った。阪神での指導者歴は14年間に及んだ。温厚で熱心な指導はセシル・フィルダーが大リーグ復帰後に本塁打王となり、感謝したことでも分かる。

 川尻哲郎は日大二―亜細亜大―日産自動車から94年ドラフト4位。横手からの変幻自在の投球で、98年にはノーヒットノーラン。日米野球で大リーガー相手の好投が際立っていた。山口重幸は岩倉のエースで84年選抜優勝。決勝では桑田真澄、清原和博のPL学園を完封した。阪神では内野手。快進撃の92年、初勝利は山口の右翼線決勝二塁打が生んだ。万歳しながら駆けた姿を覚えている。 =敬称略=

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