猛虎人国記

猛虎人国記(29)~千葉県(下)~ 心やさしき「ミスター」

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 掛布雅之の父・泰治は千葉商で監督も務めた。庭にネットを張り、姉たちがトスして打ち込ませた。習志野で2年夏に甲子園出場。3年で甲子園を逃した秋、同じく元千葉商監督で元阪神コーチの篠田仁を通じて頼み、阪神テスト受験にこぎ着けた。父子鷹(おやこだか)の物語はあまりに有名だ。

 「名もなく世に出ていって……」と言った母・テイを思う。1988年(昭63)4月3日、千葉市の実家を訪ねた。特集『女たちの開幕』で仏壇で祈る写真とともに同8日付紙面になった。

 取材メモに記事にしていない話がある。高校時代はバス・電車通学。ある日、近所の人が「息子さん、駅まで歩いていたよ」と教えてくれた。帰宅後に聞くと「バスが満員で小さい子どもが乗れない。だから僕が降りたんだ」と打ち明けた。

 「マー坊は優しい子でした」。3男3女の5番目。中学時代、料亭の女将をしていた母に「着物に似合う」と赤い鼻緒の下駄(げた)をくれた。「子どもたちで初めてのプレゼントでした。お小遣いを貯(た)めていたんですね」

 あの日、「今年だめなら、どうなるんでしょう」と漏らした。86、87年と故障に泣き、この年限りと予感していたのか。10月10日ヤクルト戦(甲子園)での引退試合で涙した。まだ33歳。心やさしきミスタータイガースの最後だった。

 掛布以後、習志野からは移籍の城友博、野口寿浩。銚子商は総勢20人のプロを輩出するが阪神には日本石油(現JX-ENEOS)経由の外野手・町田公雄だけだ。市銚子から3人。遠藤伸久は石毛宏典(西武)の1年後輩。息子・晃は銚子商エースで05年夏の甲子園に出た。窪田淳は阪神では1軍なくオリックスで1勝を刻んだ。巨人で抑えだった石毛博史は近鉄経由で晩年を過ごした。

 長谷川勉は木更津中央(現木更津総合)から亜大-日産自動車-南海ドラフト1位。江夏豊の2対4トレードで阪神に移った。移籍1年目の76年8月14日、大洋戦(西京極)で先発、7回1失点でプロ初勝利をあげた。同県人の中村勝が2打点、掛布は初のクリーンアップ(5番)で2安打した。後輩の古屋英夫、与田剛も阪神移籍で現役を終えた。

 拓大紅陵が92年夏の甲子園で準優勝した当時の2年生5番が立川隆史。4投手の1人が多田昌弘。広島で現役を終え、打撃投手に。金本知憲のFA移籍とともに阪神に移った。立川はロッテから04年6月に阪神に移籍。巨人戦に3番起用、本塁打も放った。

 千葉県人最初の阪神入りは投手・鏑木(かぶらき)悦純(よしずみ)。千葉工商(現敬愛学園)から新日鉄室蘭を経て63年入団。80年、南海-ヤクルトから移籍の投手・中山孝一が後輩にあたる。溝口憲雄は東金商から64年入団。投手1試合、転向した外野手で13試合に出た。

 印旛(現印旛明誠)81年選抜準優勝の捕手・月山栄珠(えいじゅ)は早大進学を覆しドラフト3位で獲得。投手の佐藤文男もドラフト外で獲った。大器の月山は肝炎を患い、1軍14試合だった。

 服部裕昭は浦安から85年ドラフト3位。1軍12試合未勝利で引退。打撃投手に転じた後、監督・野村克也から現役復帰を打診された。井上貴朗は長嶋茂雄と同じ佐倉出身。98年2勝をあげた。選手ではないが、監督ドン・ブレイザーの「伝達コーチ」で入閣した市原稔は千葉東出身だった。=敬称略=

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