猛虎人国記

猛虎人国記(4)~鳥取県~

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 9万本を超えるプロ野球の本塁打第1号はタイガースの藤井勇が放った。1936年(昭11)5月4日、セネタース戦の5回裏2死、野口明の速球を弾き返した。打球は128メートルもあった左中間最深部まで転がり、本塁を駆け抜けた。2番を打つ俊足だった。

 鳥取一中で春夏3度、甲子園出場。34年夏には京都商・沢村栄治から適時二塁打して勝ち、プロでも自信になった。巨人の関西遠征時の宿は阪神合宿所に近く「よく行き来して沢村と遊んだ」。

 戦後、大洋(現横浜)監督を経て69年オフ、古巣阪神にヘッドコーチで復帰した。新人だった田淵幸一(現楽天コーチ)は「心のあったかい人だった」と振り返る。「虎風荘」に寝泊まりし、不振の時は部屋に訪れ「一緒に悩んでくれた」。西武移籍後も新聞写真を手に球場に駆けつけ「ここがおかしいぞ」と助言をくれた。病魔に冒され73年途中退団。86年、69歳で鬼籍に入った。

 鳥取県の野球は因幡(いなば)の鳥取一中と伯耆(ほうき)の米子中対決の歴史だ。米子中からは土井垣武がいる。戦前は田中義雄がいたため三塁や一塁を守ったが、戦後は本来の捕手として「ダイナマイト打線」の5番を担った。闘志むき出しで人気を呼んだ。2リーグ分立の49年、米子中先輩、湯浅禎夫が監督の毎日に移った。

 米子中2年先輩に下手投げの木下勇がいた。1年後輩の遊撃手・長谷川善三は戦前南海、復員後「土井垣先輩の手引きで」阪神入りした。華麗な守備は「スワロー」(飛燕)と評された、と古い本紙にある。

 米子出身なら米田哲也だ。歴代2位の通算350勝。トラ番当時、甲子園球場近く、「350」を名前に盛り込んだスナックでよく飲んだ。

 高校は境。監督は先に書いた木下勇だった。卒業時は阪神と阪急の二重契約が問題化した。56年1月10日、米田は阪神のユニホームを着て甲子園の練習に参加。「木下さんが阪神におられたし、米子は阪神ファンが多い」と話している。だが、2月13日に下ったコミッショナー裁定で阪急契約の有効性が認められた。米田がトレードで晴れて阪神入りするのは19年後、現役晩年だった。

 小林繁が突然他界したのは今年1月17日だった。57歳だった。「江川事件」で79年キャンプイン直前に阪神移籍となり、「犠牲ではない。喜んで阪神に行く」と言った潔さ。巨人戦での鬼気迫る投球が胸を突く。

 今季、その小林以来の巨人戦8連勝をマークした能見篤史は兵庫県出石町(現豊岡市)から鳥取城北に進んだ。同校先輩、川口和久(元広島)同様、奪三振率の高い左腕だ。巨人に強いのは猛虎のエースとして頼もしい。 =敬称略=

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