猛虎人国記

猛虎人国記(3)~岩手県~ 1年目から村山監督に先発・救援を任された太田貴

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 太田貴(たかし)(45)はドラフト外の隠し玉だった。1988年(昭63)のドラフト会議から2日後の11月26日、張り込んでいた東京の鷺宮製作所に編成部長・横溝桂と担当スカウト・今成泰章が来た。独自だねで「阪神、太田獲り」と書けた。

 1面記事に太田は今も「あの時、来てくれましたよね。忘れませんよ」と懐かしむ。横溝が「ストッパー候補」とまで言った素材。監督・村山実は1年目から先発・救援と起用した。5年目の93年4月、2軍戦でノーヒットノーラン。同年6月10日中日戦(甲子園)で先発し5回1失点、プロ唯一の勝利を忘れない。

 98年から打撃投手、05年からスコアラーで裏方に徹する。「プロの世界にいた自分が信じられない。本当は、故郷で教師になる気でいた」

 小学生時代は宮古に住んでいた。今春の東日本大震災で津波の被害にあった。「同級生も命を落とした。野球人としてできることを」と誓う。

 盛岡市立時代の監督・三浦宗(たかし)(09年没)は88年夏、高田を率い、甲子園初出場。初戦、8回降雨コールドで敗れた。阿久悠は本紙『甲子園の詩』で<甲子園に一イニングの貸しがある>と詠んだ。震災後、本紙は『復興へのプレーボール』で同校の1年を追う。

 阪神に初めて岩手県人が入団したのは白坂長栄だった。48年(昭23)7月28日、盛岡遠征の際、監督・若林忠志が勧誘した。戦中戦後と妻の故郷、宮城県石巻で過ごした若林は仙台鉄道局盛岡での評判を聞いていた。当初遊撃手、吉田義男入団後は二塁手として内野陣を引き締めた。引退後は2軍監督やスコアラー、フロントとして昭和の時代を過ごした。温和な姿が脳裏に浮かぶ。二戸郡一戸町の実家は広大なりんご園を経営する。

 岩手県人は裏方でいい活躍をする。「東北のスラッガー」小笠原正一は日通盛岡から71年ドラフト9位。1軍出場果たせぬまま引退。用具担当、スコアラー、営業部時代、川藤幸三の早出特打に12年以上、打撃投手として付き合った。

 横山国夫は立教大を中退しての入団。大学同期に長嶋茂雄、杉浦忠がいた。鈴木弘規は阪急からの移籍。今は川崎市内で足もみ治療院を経営しているそうだ。

 ドラフト7位入団、木立(きだち)章成で覚えているのは1年目、92年2月の安芸キャンプ。同じ高校出で1位の萩原誠と並んでの初のフリー打撃。トラ番期待のさく越えを先に放ち、パンチ力と意地を知った。=敬称略=

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