猛虎人国記

猛虎人国記(14)~長崎県~ 初体験の捕手でピンチ救った

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 捕手に故障者が続出して、巨人内野手・木村拓也が急きょマスクをかぶって話題になったことがあった。2009年9月のことだった。木村は移籍前の広島時代に捕手経験があった。

 阪神ではもっと激しい例がある。アマチュア時代から一度も捕手経験のない者が1軍公式戦でマスクをかぶったのだ。

 1977年(昭52)4月30日の大洋戦(川崎)だった。先発捕手の田淵幸一が7回裏に打球を急所に当て退場。代わった片岡新之介もファウルチップを右手中指に当て負傷した。8回裏、片岡は二盗を許し、悪送球もあった。明らかに限界。リードは1点だけで、無死二、三塁。もう1人の捕手・大島忠一は7回表の代打で使っていた。

 「誰か捕手のできるヤツはおらんか」監督・吉田義男の問いかけに「オレがやる」と名乗り出たのがセンターの池辺巌(いわお)(豪則=たけのり)だった。捕手経験は「全くなし」。古沢憲司と「サインは7種類ぐらい作った」が、直球、カーブだけで「目をつぶって捕った」。これで後続3人を切った。9回裏もしのいでの1点差勝利に、球団から金一封が出たそうだ。

 池辺は海星時代、エースで61年春夏と甲子園出場。大毎に入団し、野手に転向した。オールスター選出4度、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)2度の名外野手だった。阪神へは75年に移籍。この急造捕手は1年目の春だった。

 長崎県の野球は県内最多、春夏20回の甲子園出場を果たす海星を抜きに語れない。県内に多くの指導者を輩出する。

 平田勝男は海星で怪腕「サッシー」こと酒井圭一(ヤクルト)の1年後輩。2番遊撃で76年夏の甲子園で4強、77年は主将で選抜開会式で選手宣誓を務めた。選手、監督・星野仙一付き広報、ヘッドコーチ、2軍監督でそれぞれ優勝を経験。2010年秋からスポニチ評論家に復帰、健筆を振るう。

 下柳剛を育てた瓊浦(けいほ)の監督・安野俊一は海星主将として73年夏の甲子園に出ている。03年の移籍から9年、阪神で記した80勝は現役最多。昨季限りで戦力外となったが、現役続行を目指し、43歳で挑戦を続ける。

 本西厚博は瓊浦のエースとして80年夏、同校初の甲子園に導いた。

 球団創設2年目の37年、長崎商から入団した三塁手・比留木(ひるき)虎雄は戦後、母校監督に就任。52年、甲子園に導き春8強、夏4強。当時、4番・三塁手だった河津憲一も阪神に入った。

 同じく三塁手で現役に野原将志がいる。昨季1軍デビューし、11月にはオーストラリアン・ベースボールリーグ(ABL)に派遣され、修行を積んだ。昨春の選抜に出た波佐見の右腕・松田遼馬はドラフト5位で入団する。=敬称略=

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