猛虎人国記

猛虎人国記(61)~香川県~ 初代1位の悲運と無念 石床幹雄

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 石床(いしどこ)幹雄は1965年(昭40)11月17日に開かれた第1回ドラフト会議で阪神が1位指名した投手として知られる。スカウト・河西俊雄は後の近鉄317勝左腕、育英・鈴木啓示に半ば指名を約束していたが、先輩の佐川直行が隠し玉として「スカウト生命を懸ける」とまで言い、強行指名に踏み切った。

 小豆島・内海町の生まれ。福田中から名門・高松商に進んだが、投手枠争い(同期29人中3人)に疲れ、退部。1年2学期から地元の土庄(とのしょう)に転校した。2年秋、翌春の選抜を制する岡山東商との練習試合で平松政次と投げ合い、1安打完封の5―0。佐川はこの快投を見ていたそうだ。

 エースは同期の土井池憲治(立教大―京都大丸)で普段は二塁手。土庄は投手二枚看板で3年春の県大会優勝。夏も北四国大会に進んだ。松山商相手に先発・土井池がつかまり、石床は救援したが1―4で敗れた。

 阪神では期待の背番号18。初勝利は4年目、69年10月12日大洋(現DeNA)最終戦(川崎)。先発し、7回無死一、二塁を残して降板したが6回0/3を2安打無失点。得意のシュートが切れた。

 だが、同年オフの健康診断で慢性腎炎と診断された。小豆島での入院生活の後、翌70年8月に無念の引退。まだ22歳、これからだった。故郷で76年から料亭を開き、病と闘いながら名店に仕立てた。04年11月、急性心不全で他界。57歳だった。

 阪神で最も実績を残した香川県人は池内豊だろう。志度商(現志度)から入団した南海での5年間は7試合で0勝1敗。江夏豊―江本孟紀が軸の2対4の交換トレードで阪神に移り、中継ぎでよく使われた。79年54試合5勝13セーブ、80年はリーグ最多56試合、81年は歴代最多(当時)73試合に登板した。右横手からのシュートが武器だった。昨年から関西独立リーグ・兵庫ブルーサンダース監督を務める。

 植上健治は徳島市出身。高松商のエースとして73年春夏と甲子園に出場。同年ドラフト2位で入団。6位が習志野・掛布雅之だった。右肩・右肘の故障に悩み1軍登板ないままクラウン(現西武)移籍。引退後、打撃投手、スコアラーで活躍。95年2月、キャンプ地・マウイで心臓発作のため急逝。40歳だった。

 伊良部秀輝は沖縄・宮古島生まれ、兵庫・尼崎育ち。尽誠学園に野球留学し86、87年と夏の甲子園に連続出場した。87年夏の初戦で抑え込んだ浦和学院・鈴木健(西武)が「マウンドでは鬼のようだった」と恐れを抱いた。大リーグ時代に聞いた「野球ができる幸せ」という純情はここでは書ききれない。阪神入りは02年オフ。03年のリーグ優勝に大きく貢献した。昨年7月、ロサンゼルス近郊の自宅で死亡が確認された。何たることかと言葉もない。

 戦前に1人。森田明義は42年入団。投手だが、選手不足から野手でも出場。織田光正も投手だが野手で起用され、盗塁2が記録に残る。

 中西太は79年、打撃コーチで入団。80年5月のドン・ブレイザー退任後、監督代行となり81年監督。打撃コーチとして手腕も一流。78歳の今も時折、グラウンドに顔を出す。=敬称略=

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