猛虎人国記

猛虎人国記(22)~愛知県(下)~ 優勝試合の胴上げ投手と祝砲4番

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 享栄商(現享栄)出身を続ける。中原宏は在籍1年で召集。抑留から帰還し故郷の岐阜市・大日本土木のエースとして46、47年の都市対抗を連覇。48年に南海入りした。上坂太一郎は和田豊(現監督)の後釜と期待された。以上で名古屋「4商」出身を終え、以後は各校1人だ。

 球団創設メンバーの佐藤武夫は岡崎中出身。36年2月の球団初合宿で同室の小川年安がいたずら。松木謙治郎が<小川のラブレターを信用して返事まで書く純情さ>と懐かしんだ。

 豊橋工の右腕・牧勝彦は60年夏の愛知大会決勝で敗れた。1年目の61年5月27日のウエスタンリーグ西鉄戦(甲子園)で19三振を奪い、プロ野球最多記録(当時)と表彰された。6月1軍デビュー、9月初勝利。2年目4勝、3年目8勝で小山正明移籍後の「47」を背負った。

 同様に母校唯一の甲子園出場を寸前で逃したのが大同工の伊藤文隆だ。72年夏の愛知大会準決勝(熱田)で中京(現中京大中京)に逆転で敗れた。試合前、母校で手渡した弁当を後輩が部室に置き忘れた。<青ざめる後輩に伊藤は何一つ責める言葉を口にしなかった>。空腹だったが<誰にも弁当の話をしなかった>=本多史泰『憧憬(しょうけい)のタテジマ』=。気の優しさがにじみ出ている。

 石川緑(本名・伊藤緑郎(ろくろう))は国府(こう)から中日にテスト入団。下手投げに変えて頭角を現し阪神移籍。リーグ優勝を決めた64年9月30日の中日戦(甲子園)で完投、胴上げ投手となった。3者連続3球三振(現在14人・15度)も記録している。
 この64年優勝決定試合で祝砲31号を放ったのが4番の山内一弘。同年、小山との「世紀のトレード」で移籍。65年に史上初の300本塁打、67年に川上哲治に次ぐ2000安打を達成した。

 起(おこし)工では染色を学ぶ工業化学科。野球は軟式。中日テストに落ち、就職先は川島紡績だった。

 指導者時代は通称「かっぱえびせん」。教え始めると「やめられない、止まらない」光景を新庄剛志にも、フランスの野球選手相手にも見た。

 星城を出た鮎川義文が本紙1面を飾ったのは93年4月16日付。前夜のヤクルト戦(甲子園)で満塁一掃の左中間二塁打など3安打5打点を忘れない。現編集局長の鈴木光が刈谷市の実家に電話し「4年は頑張れと送り出したら、本当に5年目で…」と父の談話を原稿に盛り込んだ。本紙評論家・西本幸雄は<鮎川の活躍は偶然ではない>と努力を見抜いた。柔軟な打撃が光っていた。

 的場寛一は尼崎出身。後に沖縄尚学を選抜初優勝に導く監督・金城孝夫(現長崎日大監督)の弥富に進んだ。阪神退団後は社会人・トヨタ自動車で頑張り、今年は日本代表入りを果たした。

 最後に本紙評論家3年目に入る赤星憲広。大府で2年連続で選抜に出場。プロで新人王、5年連続盗塁王、ゴールデングラブ賞6度…。車いす贈呈や少年野球チーム・大会の運営は今も続ける。実績をより輝かせているのは社会貢献への姿勢である。 =敬称略=

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