猛虎人国記

猛虎人国記(5)~青森県~

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 雪の積もる青森県弘前市、弘前城近くで鮮魚店を営む葛西稔の実家を訪ねたのは1989年12月6日だった。阪神スカウト・田丸仁、菊地敏幸のドラフト1位指名のあいさつに同行した。

 城西小時代に軟式野球の全国大会4強。弘前二中から仙台の強豪、東北に進んだ。一覧表は出身高校別のため、一覧表にはないが、青森県人だ。

 東北では同期に「大魔神」佐々木主浩(横浜―マリナーズ)がおり、控え投手。3年夏は6番・一塁手で甲子園4強。法政大に進み下手投げのエースとして東京六大学リーグ4連覇に貢献した。

 当日は弘前二中校長・片岡通夫から墨で直筆の手紙が届いていた。<母校の名誉を高め、生徒に夢と希望を与えた>と栄誉賞授賞式に招かれた。

 葛西家が障子を取り外し、2間14畳で用意した「報道陣控え所」は地元テレビ局など30人以上でごった返していた。「太田幸司以来ですね」と地元記者が言った言葉が見出しになった。

 太田幸司が青森・三沢からドラフト1位で近鉄入りしたのは69年。夏の甲子園決勝で松山商と延長18回引き分け、再試合の熱闘は、女学生の「コーちゃん」ブームだけでなく、全国の人々の胸を打った。

 太田は最晩年の1年を阪神で過ごしている。近鉄から83年巨人、84年阪神に移籍したが、両球団で1軍登板はなかった。84年10月17日、日本シリーズの合間に引退会見を開いた。「プロ入り当初は人気が重荷で、騒がれるのが嫌で嫌で仕方なかった。最後の2~3年は逆にいい勉強になった」

 引退後は毎日放送解説者。無口な青年が今では関西弁のしゃべりが売りだ。一昨年発足の日本女子プロ野球機構のスーパーバイザーでもある。

 太田が阪神入りする葛西に贈った言葉は「どんなに喜び、期待しているか。君が青森野球人の道を作れ」だった。葛西は2年目に8勝。「ツバメキラー」で92年ヤクルト戦で開幕投手も務めた。救援に回り、96年はリーグ最多登板。監督・野村克也は左腕・遠山と交互に投手―一塁を務める変則継投でも起用した。引退後は2軍コーチ、09年からスカウトを務める。

 茨城・土浦日大出身の工藤一彦は小学生まで青森で過ごした。その巨体とやさしい人柄で「ぞうさん」と呼ばれた。真摯(しんし)で朴訥(ぼくとつ)な姿は東北人である。三戸からテスト生で入った似鳥(にたどり)功は打撃投手として田淵幸一を支えた。七戸出身の橋本武広は526試合連続救援登板の一時プロ野球記録を持ち、阪神で1年半を過ごした。今は西武2軍コーチだ。

 弘前に生まれ、本籍は三沢の寺山修司は<私たちは一日として野球をしなかった日はなかったと言っていい>と書いた=『野球の時代は終わった』=。青森の野球はどこか懐かしく、温かい。

 今オフ、新監督に就任した和田豊の父親は青森出身で千葉に暮らすが、昔から大の阪神ファンだという。 =敬称略=

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