猛虎人国記

猛虎人国記(64)~和歌山県(上)~ 美酒知らず、苦闘支えた2千安打 藤田平

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 歴代阪神在籍選手42人は愛知県41人や広島県38人などをしのぎ全国3位だ。高野連加盟40校、人口102万人の県を思うと突出している。野球王国は阪神にも多彩な人材を輩出してきた。

 はじめに阪神で唯一2000安打を達成した藤田平を書く。少年時代、打球が飛び過ぎ、ボールがなくなるので「左で打て」と言われた。当時珍しい右投げ左打ちとなった。手首の利いた巧打の秘密かもしれない。

 市和歌山商(現市和歌山)で64、65年と選抜出場。65年は中京商(現中京大中京)戦で大会初の1試合2本塁打。毎日新聞の松尾俊治は「天才的」と評し、ヨギ・ベラ、スタン・ミュージアルにたとえた。決勝は4連続完封の岡山東商・平松政次(大洋)との対決で観衆発表6万5千。平松から2安打したが、延長13回、1―2で惜敗した。

 スカウト・河西俊雄が「母親の体形を見て決めた」と内定の明治大監督・島岡吉郎の怒りを承知でドラフト2位指名。粘り強い交渉で入団した。

 1年目から「誰に野球を教わった?」と先輩に聞かれるほどで、市和商時代の監督・長谷川治(海南中―明治大―近畿)に「徹底的に基本を叩き込まれたお陰」と語っている=西本忠成『野球人生「わが恩師」』=。

 2年目67年には吉田義男を二塁に追いやり遊撃の定位置獲得。ON全盛のなか最多安打、最多二塁打、最多三塁打。69年は全試合出場で併殺打ゼロ。78年には208打席無三振の日本記録(97年、イチローが更新)。79年の右大腿肉離れで苦しんだが、81年首位打者でカムバック賞を受けた。

 輝かしい現役19年だが優勝経験はない。優勝翌々年に入団、引退翌年に優勝。苦闘続けるチームを支えた打者だった。

 市和商の2年後輩に左腕・野上俊夫がいた。67年選抜でノーヒットノーランを記録し8強。夏4強。期待のドラフト1位も1年目から膝を痛めるなど活躍できなかった。南海移籍後、打者に転向し引退となった。漫画『あぶさん』で第二の人生に向かう印象的なシーンが描かれている。

 田村領平の父は元大洋、南海投手の田村政雄。現役の育成選手に玉置隆、阪口哲也がいる。正田耕三は監督・岡田彰布の下で打撃コーチを務めた。

 県立の和歌山商に西山和良。学制改革で桐蔭から3年春に移り、夏に3番センターで甲子園4強入り。関西大で4番を打った。阪神では勝負強い代打。天覧試合のサヨナラ弾を左翼で見上げた。引退後は2軍監督、編成部長、取締役までなった。後輩の福塚勝哉は毎日から阪神に移り、第2捕手でよく出た。

 星林から、法政大―シダックスの松田匡司は俊足で監督・野村克也命名「F1セブン」の一員だった。松井優典は南海での現役時代、コーチでヤクルト―阪神と野村を支えた。
 智弁和歌山で96年選抜準優勝、主将の97年夏全国制覇の捕手中谷仁はドラフト1位。移籍先の楽天を昨季限りで自由契約となり、巨人と契約した。06年4強時の捕手橋本良平は6年目を迎える。=敬称略=

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