猛虎人国記

猛虎人国記(17)~茨城県~ 田宮、安藤…に見える指導者気質

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 田宮謙次郎が永眠したのは「こどもの日」だった。2010年5月5日に逝った。引退後は少年少女育成に尽力した田宮らしい。地元、茨城県下館市(現筑西市)には「田宮杯」少年野球大会がある。スポニチ少年野球教室の名物先生だった。

 市議会議員に立候補した00年に訪ねると、笑顔で迎えてくれた。「戦後の荒廃した時代、町にチームつくって頑張った思い出がよみがえった。あれが青春だった」。球友が著した『栄光の「全下館」-田宮謙次郎 青春の軌跡』を渡された。

 下館商(現下館一)から日大入学までの間、46年(昭21)当時、クラブチーム「全下館」で奮闘した。物資不足で左投げだが右投げのグラブを使った。その鉄腕強打は町の英雄だった。田宮が寄せた序文に<帰郷の時はわくわくする>とある。

 同書は48年12月末、阪神が巨人より1日早く勧誘し獲得した事情も描いている。投手で入団。50年国鉄戦では9回2死まで完全試合を演じた。左肩を壊し野手転向。58年首位打者となり新人長嶋茂雄の3冠を阻止。同年オフ「A級10年選手」の移籍権を行使し、大毎に移った。球団内外の複雑な人脈から禍根残る騒動となった。87年オフのヘッドコーチ就任は29年ぶりの阪神復帰だった。人望厚く、OB会長を84年から18年間務めた。

 田宮の後のOB会長が安藤統男(もとお)(統夫)である。同様に人望が厚く、高校・大学・プロでいずれも主将を務めた。現監督・和田豊が提案する主将制が復活し、73年の安藤以来となる。土浦一では4番遊撃手で57年夏の甲子園出場。慶応大では伝説の「早慶6連戦」を戦った。阪神入団時から幹部候補とされ、引退後コーチ、2軍監督、監督と昇格した。

 「学生野球の父」飛田穂洲(すいしゅう)(忠順=ただより)を生んだ土地だ。水戸の「三ぽい」が「理屈っぽい、骨っぽい、怒りっぽい」、茨城は「飽きっぽい、怒りっぽい、忘れっぽい」。茨城の野球人には理論家や熱血漢の指導者が多い。

 采配が「マジック」とも呼ばれた木内幸男がいる。土浦一で安藤を教えた。取手二監督時代に大野久と吉田剛(たかし)。大野は引退後、教員資格をとり、東洋大牛久で監督を務める。吉田は84年夏、全国制覇の主将。近鉄から移籍の00年7月19日、甲子園で桑田(巨人)からサヨナラ打した時、PL学園を破った決勝を想起した。常総学院での教え子が坂克彦で、03年夏に全国制覇した時の3番打者だった。

 74年春夏と甲子園出場した土浦日大のエースが工藤一彦、4番が林真人だった。夏の東海大相模戦は延長16回の激闘。工藤は263球目をサヨナラ打された。西日のあたる三塁側ベンチで、延長に入るとイニング前の投球練習を行わないほど疲れ切っていた。

 井川慶は優勝した03年MVP。ヤンキース移籍後も球団にあいさつに訪れる。金沢健人は阪神-日本ハム-オリックス-ソフトバンクと放浪。今では日本一チームの重要な救援右腕だ。シュートが切れる。昨秋初登板した清原大貴はまだ22歳。スライダーが鋭い。=敬称略=

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