猛虎人国記

猛虎人国記(60)~島根県~ 苦労も明るく乗り越えた福間納

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 福間納の阪神移籍は1981年(昭56)開幕後、4月17日に決まった。ロッテは下手投げ・深沢恵雄の譲渡を3年前から打診しており、阪神は左腕が欲しかった。

 ロッテ2年間は勝ち星なし。左肘痛に悩んだ。移籍で救援左腕として花開く。82年初勝利、83年最優秀防御率、84年セ・リーグ最多登板(当時)、85年は先発陣を支え日本一に貢献した。サヨナラ弾を浴びた原辰徳(巨人)、日本シリーズで決勝弾を浴びた西岡良洋(西武)を次の対決でリベンジする気概が光った。

 大田高主将、エース、3番で69年選抜に出場。大会注目の速球派だったが、初戦・丸亀商(現丸亀城西)に後半集中打を浴び4―9で敗れた。松下電器(現パナソニック)では1年目に都市対抗優秀選手。だが後に関西大から山口高志(現阪神投手コーチ)が入り、福井保夫(後に近鉄)もいて控えに甘んじ、74年には外野手に回された。山口プロ入りで再起し78年ドラフトでロッテ1位指名。3位が落合博満だった。社会人9年、「山口がいたからここまで来られた」と語った。

 高校時代「甲子園で活躍して県外に就職した同郷の人々に喜んでもらいたい」と語った記事が残る。陽気な性格は、山陰・島根県人の明るさをアピールするようだった。
 大田が59年夏の甲子園に出た時のエース中島広喜は力投する姿から「村山2世」と呼ばれた。2イニングを投げただけで打者転向。石橋功行は久手中時代、砲丸投げで中国記録。大田高では「中国No.1」と呼ばれ、80年ドラフト3位。4年目に外野手に転向した。

 大社の伊藤光四郎は左の強打者。56年阪神入り。61年オフに西鉄(現西武)に移り、外野の定位置を奪った。「趣味は野球」と言う誠実、まじめな出雲人。クラウンコーチ時代、スイッチ転向で左打ちの特訓を行った加藤博一が「恩師」と語っていた。昨年11月30日、74歳で永眠した。

 渡辺伸彦は益田東時代、県4強が最高。福山市の常石鉄工(現ツネイシ)でも全国大会は遠かった。無名でも「プロに行けると信じていた」と努力が実り、88年ドラフト5位指名。カーブ、スライダーが鋭く、1年目から中継ぎで重用された。オリックス、横浜と渡り、現役12年、237試合に投げた。02年から阪神打撃投手を務める。

 益田東を96年夏の甲子園に導いた左腕・三東洋は「山陰のドクターK」と呼ばれた。島根大会5試合35イニングで53奪三振は大会新記録。甲子園では得意のカーブが決まらず、初戦で東海大菅生に敗れた。駒沢大、ヤマハを経て03年入団。04年に5勝をあげた。

 江の川(現石見(いわみ)智翠館(ちすいかん))甲子園初出場の75年夏に登板した崎山嗣盛は同年ドラフト外。同校は野球留学が多く、竹峰丈太郎は兵庫・加古川、星山忠弘は宝塚出身で中学時代同僚に今岡誠。竹峰は日本野球体育学校(校長・江藤慎一)から初のプロだった。

 青雲光夫は平田高から神奈川大中退、76年秋入団テストを受け、遠投120メートルを投げ合格。4年目から打撃投手として強力打撃陣を支えた。

 邇摩(にま)出身の山内新一は三菱重工三原から巨人、南海(現ソフトバンク)と渡り、84年阪神移籍。同年7勝、日本一の85年も1勝を刻み、現役を終えた。=敬称略=

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