猛虎人国記

猛虎人国記(55)~岡山県~ 哀愁漂う名サード 三宅秀史

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 名三塁手・三宅秀史(伸和)は岡山県児島郡琴浦町(現倉敷市)に生まれ、地元の県立南海高で頭角を現した。二塁手だった。3年夏の岡山大会決勝で岡山東(現岡山東商)を破り優勝するが、当時は東中国大会があった。境(鳥取)との決勝は引き分け。再試合で0―1で敗れ、甲子園には出場していない。

 全国的には無名だが、スカウト・青木一三がエースの田代照勝(国鉄)を見に行った際、目にとまった。ただ『哀愁のサード 三宅秀史』(平岡泰博)には本人の話で、道筋をつけたのは2軍監督・森田忠勇だとある。

 入団発表は1952年(昭27)12月6日、後に鉄壁の三遊間を組む吉田義男と一緒だった。俊敏華麗な三塁守備は「長嶋以上」と言われた。岡田彰布は三宅への憧れから背番号16を選んだ。

 882試合連続出場と700試合連続全イニング出場は金本知憲が更新するまで球団記録だった。62年9月6日、試合前練習中、ボールが左目を直撃し重傷を負った。事実上、選手生命が断たれた。前書で平岡は三宅に野球人生に悔いはありますかと問うている。
「……あのね、大ありや」

 引退後も生体肝移植や交通事故など苦闘は続いた。昨年春、甲子園で会った。非公開の練習試合の日で玄関で足止めされていた。残念だが若い職員は偉大なOBを知らなかった。入場を手配すると「ありがとう」。穏やかで優しい表情だった。

 岡山県初の阪神入りは49年夏、倉敷工が甲子園に初出場、4強入りした小沢馨―藤沢新六のバッテリーで、50年だけ2軍に在籍。藤沢の大会3本塁打は30年以上大会記録だった。

 小沢は後に母校監督として春夏14回、甲子園に導いた。室山皓之助は57年選抜4強時の3番。法政大で東京六大学首位打者となった。85年日本一当時は監督付き広報。所沢から帰りのタクシーで吉田と2人で感激に浸った。三宅博は遊撃手で58年春、59年春夏と甲子園出場。引退後、名スコアラーとなった。片岡新之介は3年時投手。平松政次(岡山東商)、松岡弘(倉敷商)、森安敏明(関西)と「岡山四天王」と呼ばれた。プロで捕手。阪神移籍後、田淵幸一が倒れ、77年は10本塁打した。

 関西から浅越桂一が55年に入団。58年から「3」を背負い、61年には代打サヨナラ本塁打も放った。引退後、フロント要職で活躍。昨年8月6日、脳梗塞で永眠、75歳だった。真鍋勝己は87年オフ就任の監督・村山実が背番号を「20」に変え期待をかけた。引退後審判員。現役で期待の森田一成がいる。

 岡山東商の岡義朗は広島、南海から84―85年と在籍。90―95年中村勝広、09―11年真弓明信の下、コーチで支えた。八木裕は2年から4番、3年で下手投げ投手。同期ライバルに岡山南の横谷総一がいた。82年春、83年夏と出た甲子園で15打数7安打4長打。ドラフト外で巨人などと争奪戦だった。

 選手での在籍はないがスカウト、編成部長で手腕をふるった横溝桂は岡山東商54年選抜出場時の左腕エース。闘将・星野仙一は倉敷商3年夏も東中国大会で米子南に惜敗し、甲子園は夢だった。
 =敬称略=

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