猛虎人国記

猛虎人国記(10)~大分県~ 「怪童再来」源五郎丸の悲劇

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 源五郎丸(げんごろうまる)洋の悲劇は1982年(昭57)、春まだ浅い3月4日に起きた。尼崎・浜田球場での2軍練習、最後のベースランニング。一塁を回ったところで倒れ込んだ。右大腿二頭筋断裂で全治2カ月。これが投手として致命傷となり、1軍に上がることなく、ユニホームを脱いだ。今は少年少女野球教室で「夢の応援」をしている。

 日田林工3年の81年春の九州大会優勝。甲子園に出ていないが、快速球右腕は評判で、同年ドラフトで1位指名した。

 安芸キャンプでの評判がすごかった。OBの村山実は「阪神の歴史を作る投手」、評論家・山内一弘は「手元でホップする」と池永正明(下関商―西鉄)や「怪童」尾崎行雄(浪商―東映)ら高卒大物新人に例えた。

 キャンプ打ち上げ後の3月3日、当時恒例だった甲子園に観客を入れての有料紅白戦に紅組先発で起用された。2回を2安打1失点。自らのけん制悪送球から失点したが、掛布雅之を速球で詰まらせ中飛に打ち取った。1軍への期待が高まった翌日の悲劇だった。

 3月1日卒業式の前後4日間、チームを離れ、佐賀県杵島郡江北町の実家に帰省していた。帰阪後1日半でのマウンドだった。江本孟紀は同年出したベストセラー『プロ野球を10倍楽しく見る方法』で<客寄せのために強引に出場させたのが原因>と書いている。
 津久見の名将、小嶋仁八郎に鍛えられた67年選抜優勝投手、吉良修一も伸び悩み、2勝をあげただけに終わった。

 国東からは左腕が続いた。弓長起浩は亜大、熊谷組を経て92年入団。1年目から51試合に投げ、防御率1・35が光る。プロ11年で400試合すべて救援、年間50試合登板が5度もある。ヤクルトと優勝を争った92年10月の神宮決戦。ピンチに湯舟敏郎を起用して失敗した投手コーチ・大石清が後に「救援専門の弓長で行くべきだった」と悔いたのを覚えている。引退後、鳥取市のスポーツジム「ワールドウィング」でトレーナーとして働く。ダイエーから移籍の吉田豊彦は国東で弓長の1つ先輩にあたる。萱島(かやじま)大介は赤星憲広(スポニチ評論家)も認める脚力があった。現在は競輪選手で奮闘する。

 合併で明豊となった別府大付からは75年テストで宮本尊義(たかよし)-高木昇のバッテリーがそろって入団した。ともに1軍出場はなかった。引退後、高木は用具係やマネジャー、いまは「虎風荘」の寮長だ。城島健司は長崎・佐世保出身。「プロになりたい」と野球留学していた。

 川上哲治の熊本工や鹿児島、宮崎と4県で代表を争い、38年夏に甲子園出場した大分商からは外野手・森国五郎が入団。41年はチーム2位の打率を残し、戦火に散った。佐伯中(現佐伯鶴城)の投手・大橋衛も入団2年で召集された。

 馬場哲也は竹田時代、双子の兄が先発、自身は救援の投手だった。引退後、営業やマネジャーでチームを支える。現役では安藤優也だ。大分雄城台(おぎのだい)出身。いま一度、あの輝きを取り戻してほしい。=敬称略=

続きを表示

バックナンバー

もっと見る