猛虎人国記

猛虎人国記(8)~滋賀県~

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 甲子園球場記者席でスポーツニッポン新聞(スポニチ)の席は最も三塁側寄りにある。その席の前方には、阪神球団のボックスがある。査定担当者の席だ。これは昔も今も変わっていない。

 このボックスに石田博三はいた。「査定担当というのはね」と丁寧に説明してくれた。まだ阪神担当駆け出しのころだ。「チームや選手にべったりせず、客観的に、冷静に判断しなくてはいけない。だから、少し離れた、この席なんです」

 甲子園のナイターだと午後6時の試合開始30分ほど前に着席する。スポニチ席に訪れ、「きょうの記事は……」と論評をくれる。的を射た指摘で随分と勉強になった。いつも笑顔だった。

 そんな石田は、大津東(現・膳所)出身。1956年(昭31)選抜に出場した、長身1メートル82の投手だった。腰を痛め、阪神では外野手。58年はウエスタンリーグ打点王にもなった。63年8月15日の国鉄戦(東京)で田所善治郎から唯一の本塁打を代打で記録している。

 64年限りで引退後、スポーツ用品店で働いていたが、79年、球団から2軍コーチ就任を要請された。以後、年俸資料となる査定担当となり、02年まで務めた。先の記事への論評のように、穏やかで、冷徹な姿勢は査定担当に打って付けだった。

 石田を含め滋賀県出身で阪神在籍選手はわずか3人。2リーグ分立の50年に入団した左投げ左打ちの外野手、丸岡武が第1号である。

 高校(中等)球界も戦前戦後を通じ、隣の京都勢に押された。夏の甲子園大会初出場は53年の八日市。以後、9校連続初戦敗退の後、79年比叡山が初勝利から8強。翌80年の瀬田工は準決勝進出を果たし、当時の捕手が橘高淳だった。1軍出場なく、84年限りで引退。米ブリンクマン審判学校に学び、今も審判員を続けている。

 尽誠学園に進んだ田中聡は志賀町、PL学園に進んだ桜井広大は野洲町の出身。一発長打が魅力の桜井は昨季限りで戦力外となり、新天地を探している。=敬称略=

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