猛虎人国記

猛虎人国記(37)~兵庫県(中) 憧れから「逆指名」した「紳士」 別当薫

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 甲子園球場の隣、いまはダイエーやノボテル甲子園がある所に甲陽学院があった。今では考えられないことだが、別当薫は在学中、草創期のタイガースとよく合同練習を行った。景浦将の豪打にあこがれを抱いた。

 エースとして1937年(昭12)春、38年春夏と甲子園出場。慶大で首位打者。卒業後、家業の材木商を継ぎ、全大阪の投手・主砲として47年、都市対抗で3位。プロ争奪戦となった。<とても勧誘などしても無理とあきらめていた別当から入団したいと聞いて、むしろ驚き><棚からぼた餅の心境だった>=松木謙治郎『タイガースの生いたち』=。今で言う「逆指名」だ。甲陽中時代の憧憬(しょうけい)が決め手だった。

 1年目48年は開幕前の3大会9試合で6本塁打を放ち「別当ブーム」を呼んだ。2年目49年は打率・322、39本塁打。対抗意識むきだしの藤村富美男も46本塁打した。

 同年オフの2リーグ分立で別当は尊敬する監督・若林忠志とともに新球団・毎日に移った。騒動に嫌気がさし「一時は引退も考えた」と当時の本紙が甲陽中先輩の話として伝えている。知的、都会的な紳士で引退後は大毎、近鉄、広島、大洋4球団で監督を務めた。
 富松信彦は32年選抜に投手で出場。実家は上甲子園の旅館だった。日下章の父親は県会議員で入団時「2軍で使わない」と一札入れた。引退後、尼崎市議会議員、同議長を務めた。

 西宮市内を回る。関学中捕手の岩崎利夫は37年1年で退団し、車掌見習いから電鉄本社に勤めた。鳴尾の大石昌義は広島自由契約後の94年、打撃投手として阪神入り、現役に復帰した。県最多甲子園通算55勝の報徳学園からは谷村智博(智啓)がいる。関学大、鐘淵化学から71年ドラフト1位。坂口慶三郎は卒業後に母校の74年選抜優勝に刺激され、入団テストに臨んで合格した。西宮東出身の成本年秀はロッテ自由契約後、阪神が獲り、01年23SPでカムバック賞に輝いた。県西宮からは法政大を経て55年途中に入った捕手・蘭定(らんじょう)美男が1軍2試合。57年入団の内野手・中山重夫の出身校はメディアガイドに県西宮とあるが、市西宮と指摘があった。

 県芦屋が52年夏に全国制覇した時、本屋敷錦吾は2年生で二塁。翌年遊撃手で甲子園に出た。立教大で長嶋茂雄と三遊間を組み、阪急から移籍した阪神では吉田義男と二遊間を組んだ。

 神戸市内に入る。育英は県最多7人。戸梶正夫は強肩捕手でバッキーとよく組んだ。今西和男は鈴木啓示の1年先輩で72年ジュニアオールスターMVP。玉城正富、竹田和史、横谷彰将、現役の藤本敦士(ヤクルト)、若竹竜士と続く。

 村野工(現神戸村野工)からドラフト外で中谷忠己、坂孝一にドラフト1位で安達智次郎。中谷のパンチ力、坂の好守、安達とは留学先の米ブリストルで会った。神港学園の塩谷和彦が一緒だった。引退後フロント入りした藤原通は2012年元日付で1軍サブマネジャーとなる。神戸弘陵初のプロ、多岐篤司は監督・村山実期待の左腕だった。

 神戸二中(現兵庫)が戦後48、49年と選抜に出た時の外野手が河野博。後輩に投手・太田紘一。現オーナー・坂井信也は神戸一中(現神戸)の出身だ。北神商(現兵庫商)の仁科栄三は内野手だが投手兼務で3勝。神戸商から松尾勝彦。神戸工の岩間章泰は軟式出身の投手でテスト採用した。

 大正から昭和初めの第一神港商(現市神港)黄金時代の捕手、小柴重吉を特記したい。指導者として多くの人材を生んだ。セ・リーグ審判の後、62年阪神2軍監督となった。現投手コーチの山口高志が後輩にあたる。 =敬称略=

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