猛虎人国記

猛虎人国記(28)~千葉県(上)~ 運命開いた右打席での安打(和田豊)

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 第32代監督に就いた和田豊で思い出すのは夕暮れの安芸市営球場である。一塁側ファウル地域のマシンを相手に独り打撃練習を繰り返していた。球場全体が山陰となり、冷え込むなか、大汗をかいていた。

 1988年(昭63)2月9日である。翌10日にハワイ・マウイ―甲子園で練習を積んでいた1軍主力組が安芸に入る。

 左で打っていた。新監督・村山実が「左でも打てるなら」と話したと聞き、スイッチヒッターに挑戦していた。「右100%、左100%。少なくとも他人の倍は練習しないと生き残れない」。4年目の決意があった。

 生き残りを懸けたオープン戦初戦は2月28日の阪急戦(高知市営)。5回に代打で起用され左腕・森浩二から右前打した。遊撃守備にもつき、2打席目ももらえた。右腕の森厚三だったが、まだ不安な左ではなく、右打席で今度は左前打した。

 <この二つの安打が出ていなかったら今の自分はなかった>と自著『虎の意地』に記した。しかも右投手に右打席で打ったのが運命的だった。両打ちをやめ、後に「芸術的」と呼ばれる右方向への打撃が生き残った。オープン戦中盤から先発起用され、平田勝男から遊撃を奪ったのだった。

 松戸市生まれ。我孫子に進み、1年夏に同校初の甲子園出場。日大4年で主将。84年ロサンゼルス五輪金メダル。ドラフト3位での入団だった。

 和田同様早くから「幹部候補」だったのが中村勝広だ。球団社長・小津正次郎が33歳で2軍監督抜てき。村山の後の監督就任は40歳だった。

 実家は九十九里浜のすぐ近く。少年時代、砂浜でボールを投げ、愛犬「モク」が拾ってくる。そんな遊びが練習になった。成東(なるとう)では監督・松戸健の著書の通り『夢はるか、甲子園』。早大主将として最後の早慶戦で2本塁打して自信をつけた。ドラフト2位指名。地元の資産家で、スカウト・河西俊雄があいさつに出向くと、ベンツに迎えられた。後に河西から「駅で買った菓子折りが恥ずかしく、思わず引っ込めた」と聞いた。

 戦前から県の強豪だった千葉商OBを書く。この連載に吉田義男が「好選手だった」と推薦したのが内野手・江田昌司だ。63年練習生。64年選手登録。65年1軍デビューしたが、70年の28試合出場が最高だった。

 江田と高校同期に高橋重行がいる。中退して大洋入り。阪神へは引退後の81年、コーチで入団した。現役時代の米3A経験を生かし、米留学の引率を務めた。94年7―8月の長期米出張、米中部ブリストルに安達智次郎らの取材で訪れた。高橋のアパートで夕食。夫人が車で5時間かけて運んでくれたマグロ刺し身の味は忘れられない。昨年3月の悲報には声を失った。64歳。生まれ育った旭市で逝った。

 中村典夫はテスト入団。25歳で2軍コーチ就任。編成部では関東方面のトレード調査を担当した。森忠仁もテストを受けドラフト外。投手から外野手に転向したが1軍出場を果たせなかった。引退後は日本プロ野球選手会の幹部として活躍中だ。 =敬称略=

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