猛虎人国記

猛虎人国記(26)~山形県 夫人同伴で入団した銀行員

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 山形県出身の阪神在籍選手は全国最少、1人だけだ。1979年(昭54)11月のドラフトで4位指名した投手・青木重市(しげいち)である。

 「空白の一日」を主張して巨人との入団を発表した江川卓を1位で入札し、阪神が交渉権獲得。騒動に揺れるなか、同年12月18日、大阪・梅田にあった球団事務所での入団発表は1年前に結婚した夫人同伴で行われた。

 球団代表・岡崎義人と握手した青木は「安定した生活が保障されていたが、実力の世界で腕を試したかった」と語った。鶴商学園(現鶴岡東)から社会人・山形相互銀行に進み5年を過ごしていた。当初、夫人はプロ入りに反対だったそうだ。

 中央球界では全くの無名だったが、阪神スカウト・久保征弘がくせ球に注目した。目指すは同じ東北出身で、同じ下手投げの山田久志(阪急)だが「まずは上田(二朗)さんを目標に2年後に1軍に上がれれば」と話している。だが2年間、1軍昇格はなく、81年限りで退団。大洋(現DeNA)打撃投手となった。

 山形県出身で最高の実績を残した皆川睦雄も同じく下手投げだった。米沢西(現米沢興譲館)から南海一筋18年、通算221勝。05年2月に他界。故郷の米沢市営球場は「皆川球場」と愛称される。今年1月、野球殿堂入りした。現役引退後の76-77年、監督・吉田義男の下、阪神で投手コーチを務めている。

 皆川の大先輩に富樫(冨樫)興一がいる。米沢興譲館中から慶応大でも名外野手で活躍。阪神電鉄に入社し、事業課運動係長として初代甲子園球場長、初代阪神球団代表となった。

 2リーグ分裂の49年にはセ・リーグ残留の決断を下した。正力松太郎が用意した連判状には阪神オーナー・野田誠三の署名押印はあったが、富樫のはなかった。「寝返り」と批判を受けたが、阪神は巨人との伝統の一戦を守るため、あえて富樫に汚れ役を演じさせたのではなかろうか。

 『鈴木龍二回顧録』に<巨人側につくように口説かれた富樫氏も苦しかったのだろう。「巨人側につくかわりに、阪神をやめたときはリーグで引き取る」という約束をした>とある。富樫は騒動の心労からか翌50年、脳出血で倒れ、阪神電鉄を退社。回復後の53年から61年までセ・リーグに招かれた。会長だった鈴木が<顧問として面倒をみたのは、この時の約束があったからである>と明らかにしている。

 山形県と阪神の関係では高橋栄一郎のこともある。新庄北から慶応大、日本麦酒を経て巨人、南海でオールスターにも出た投手。引退後、父親の後を継いで新庄市長となった。新庄剛志が人気 選手となった92年、「同名のよしみで新庄の名を広げよう」と、奈良県新庄町、岡山県新庄村と合同で後援会を立ち上げた。年に1度、甲子園で「新庄ナイター」を開いていた。=敬称略=

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