猛虎人国記

猛虎人国記(20)~愛知(上)~

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 春夏の甲子園大会で全国最多18度(大阪府とタイ)の優勝を誇る愛知県からはドラフト1位の新人?伊藤隼太(中京大中京―慶大)を含め41人が入団している。

 最初に小島利男を書く。プロ野球初年度1936年(昭11)、景浦将や藤村富美男を押しのけ4番を務めた。あの洲崎球場での巨人との優勝決定戦で沢村栄治に立ち向かった4番である。

 二塁手。愛知商で春夏5度甲子園出場。早大でも4番を打ち、首位打者2度など通算打率・343を記録した。プロ野球創設前のスター選手だ。後に松竹歌劇団1期生で男役・水の江滝子の相手娘役として人気を博した小倉みね子と結婚した。夫人の著書に『小島利男と私--都の西北と松竹少女歌劇』がある。

 阪神は36年8月、早大を出て三菱鉱業貝島炭鉱(福岡県)に勤める小島を獲得した。当時、二塁手に穴が空いていた。入団予定の滝野通則が法大から勧誘され、同じ享栄商(現享栄)の伊藤茂とともに契約を破棄してきたからだ。当時の職業野球の地位がうかがえる。滝野、伊藤の両選手は阪神に在籍していないが、愛知県に分類した。ちなみに滝野は戦後、有本義明(スポニチ特別編集委員)ら芦屋の監督として甲子園に導いた。

 医学博士で野球殿堂特別表彰委員も務めた竹中半平は「幻の名著」とされる『背番号への愛着』で<六大学華やかなりし頃の彼が如何(いか)に輝かしい存在であったか、彼と三原脩とは早大がプロに送った二塁手の双璧となる筈(はず)だった>と度重なる兵役を悔やんだ。

 この三原とも因縁がある。小島は巨人も獲得に動いていた。契約第1号の二塁手・三原が入営のため既に退団。阪神も除隊を待っていた。つまり早大出の小島、三原二塁手2人を阪神、巨人がそろって狙い、分け合う形となった。もし反対なら……歴史の綾(あや)である。

 小島の入団は初代監督で早大先輩として慕う森茂雄退任の直後だった。森の松山商後輩・景浦とともに監督・石本秀一と対立を繰り返した。松木謙治郎は『タイガースの生いたち』で<球団は景浦にも悪い影響を与えるとして>と37年途中、森が監督に就いたイーグルスに移籍させた。<監督交代劇がなければ、長くタイガースで活躍したであろう>と惜しんだ。

 戦後、50年には西日本で兼任監督を務めた。竹中の印象<いつまでも童顔を失わない好青年であった>は古い写真にも見える。=敬称略=

続きを表示

バックナンバー

もっと見る