猛虎人国記

猛虎人国記(41)~大阪府(三)~ 努力と奉仕のPLプロ第1号

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 全国最多76人のプロ野球選手を輩出するPL学園からは総勢13人が阪神入りしている。これも平安(現龍谷大平安)と並び最多である。

 プロ1号となったのが野田征稔(ゆきとし)である。出身は長崎県諫早市。1960年(昭35)卒業後、ノンプロ・PL教団を経て63年秋に入団。64年から選手登録された。PLの甲子園大会初出場は春夏とも62年で、創部5期生の野田のころは大阪大会8強止まりだった。

 吉田義男の引退(69年)もあり、70年には88試合に出場。71年は二塁手の定位置を獲得した。登用した監督、投手兼任の村山実は陰の努力と奉仕の姿勢を買ったと話していた。「ベンチにいても常に選手を激励していた。夏場の暑い時、手ぬぐいを冷やして、守備から戻った選手たちに手渡していた。必ず野球の神様が見ていると思った」

 村山が2度目の監督に就いた88―89年、野田は専属マネジャーだった。89年10月、辞任の村山と新監督・中村勝広の握手を陰で演出したのが野田だった。「監督交代のたびに前後が断ち切られる阪神のあしき伝統を打ち破りたかった」

 PL野球の教え「球道即人道」が生きているようだ。PLが初めて全国制覇した78年夏の主将・木戸克彦も現役時代、終末ケアを行うホスピス、淀川キリスト教病院で末期がん患者を見舞っていた。片岡篤史は児童養護施設への慰問や球場招待、「片岡基金」設立などで00年、第2回ゴールデンスピリット賞を受けた。岩田徹は入団時、PL同級で頸椎(けいつい)骨折の重傷を負った清水哲(同志社大)を見舞ったのを取材した。今は赤星憲広(本紙評論家)がオーナーの「レッドスター・ベースボールクラブ」の監督を務める。

 同様に「野球即人生」と訴えたのが興国の監督だった村井保雄である。68年夏の甲子園で優勝に導いた。春選抜には4度出ていたが夏は初出場。甲子園を決めた日の日記に「よく頑張った。考えてみると、野球生活は人生そのものだ」と書いた=神門晴之『ふる里の野球』=。この村井の教え子が4人、阪神に入っている。ドラフト1位で入団の湯舟敏郎は引退後、現役のプロ選手・高校球児のシンポジウム『夢の向こうに』のコーディネーターとして活躍。軽妙な司会のなかで、高校生の服装の乱れをただすなど、姿勢にこだわった。今季から2軍投手コーチで現場に復帰する。

 かつての大阪私学7強、明星からは3選手が入団。戦前39―40年夏の甲子園連覇の海草中(現向陽)の三塁手・投手で戦後は阪神にも在籍した真田重蔵(野球殿堂入り)が監督となり、全国優勝したのが63年。当時の捕手・4番・主将が和田徹だ。先輩に山尾孝雄がいる。同志社大で肩を痛め、阪神4年目に外野手転向。70―71年は90試合以上に出た。

 大鉄(現阪南大)の中井悦雄(よしお)は関西大を中退し山尾と同期入団。1年目の9月にデビューし3試合連続完封。だが64年5月に交通事故にあい肩を負傷。投手生命に響いた。中井の1年先輩の投手・伊藤幸男は土井正博と同級で、60年選抜に出場。ともに近鉄入りし、阪神には67年オフに移籍。先発救援で18勝をあげた。77年夏の甲子園4強のエース・4番、前田友行は投打ともに期待されたが、1軍出場はかなわなかった。

 近大付から4人。左腕・柴山宗守は関学大経由。関西六大学で投げ合った関西大の村山実と同期入団だった。現役で鶴直人、藤井彰人がいる。=敬称略=

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