猛虎人国記

猛虎人国記(27)~長野県~ 15年投げ続けた「孝行息子」

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 御子柴(みこしば)進が入団3年目のころ、地方球場でのオープン戦試合前、場内アナウンス嬢が「阪神の投手は何とお読みするのですか」と記者席にやってきたことがあった。先輩記者から聞いた。

 故郷の塩尻市周辺には十数軒あるそうだ。「早く名前を覚えてもらいたい」と話した入団時から15年間も投げ続け、今では「みこしば」で通る。

 母校・松本工は2010年夏に甲子園初出場。御子柴のころは3年夏も初戦敗退だった。1メートル84、76キロと細身のサブマリンをスカウト・今成泰章が「下半身がうまく使える。ポスト小林繁に」と評価し、1982年ドラフト4位で指名した。

 親孝行である。契約金2800万円は両親に渡し、初月給で弟にプレゼントを贈った。母は毎朝、実家近くの神社に参り、息子の幸運を祈った。チームでも先発救援両用の孝行息子だった。

 1年目のシーズン最終戦、83年10月24日ヤクルト戦(神宮)に先発でプロ初登板し、6回1失点で初勝利。88年8月5日の初完投、25歳誕生日を自ら祝う89年6月29日の初完封はともにナゴヤ球場での中日戦。「中日キラー」と呼ばれた。

 肉離れや血行障害など故障を乗り越えた日々。97年10月12日のシーズン最終戦(甲子園)で打者1人への引退登板を三振で飾った。あの日、花束を渡した長男・大輝は広陵外野手で甲子園の土を踏んだ。父は引退後、裏方でチームを支え、今はスコアラーを務める。

 名門・松本商(現松商学園)で40年春夏と甲子園に出た平林栄治は41年入団。在籍3年で兵役に服し戦場に散った。

 上沼秀人は変わっている。飯田商(現飯田長姫)では外野手。鐘紡丸子では軟式で投手を務め、50年の全国健保軟式野球大会で優勝。後にコミッショナーとなる内村祐之が軽井沢で投げている姿を見初め推薦した。

 51年3月のスポニチ『春待つ球人』に主将の投手・御園生崇男らが上手から横手投げへ転向させ、素質開花を狙うとあった。慣れぬ硬式球に右肩を壊し2年で退団している。
 土屋正孝は巨人、国鉄から65年移籍した。

 松本深志で投手。<東大受験をやめて巨人入りに踏み切ったと当時はずいぶん話題になった>=大道文『新プロ野球人国記』=。56年に三塁で定位置についた。打席では剣豪のようで「眠狂四郎」と異名をとった。

 58年に長嶋茂雄が入団すると二塁に回り天覧試合にも先発した。長嶋同期の難波昭二郎(関大)と合わせ、沢木耕太郎が『三人の三塁手』=『敗れざる者たち』所収=で明暗を描いた。阪神移籍時<愛蔵のカフカも世界文学全集も整理した、と決意のほどを語った>が1年で引退となった。

 鈴木照雄は塚原天竜-大東文化大-河合楽器から71年ドラフト11位での入団だった。75年オフに太平洋(現西武)に移籍。引退後は西武スカウトとして敏腕をふるった。=敬称略=

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