猛虎人国記

猛虎人国記(59)~ハワイ~ 「プロ」を示した若林忠志

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 ハワイ出身の日系人を書く。プロ野球は草創期から日系人が支えてきた。『日米野球史―メジャーを追いかけた70年』で波多野勝は<日系人が入り、プロの底上げが行われた。彼らにとっては母国への凱旋(がいせん)であり、憧憬(しょうけい)もあった>と指摘する。

 若林忠志は09年オフの連載で取り上げた。日系人のプロ第1号である。ハワイ・マッキンレー高から法政大、日本コロムビアを経て、1936年(昭11)の阪神球団創設で加わった。投手や監督の実績はむろん、草創期から、プロ野球チームとしての基礎、土台を築いた功績は大きい。

 球団愛称がタイガースと決まると、トラのマークを手配した。母校マッキンレー高のマスコットがトラだった。球団歌「大阪タイガースの歌」で作詞・佐藤惣之助、作曲・古関裕而の大物コンビを仲介した。レコード会社コロムビア時代に佐藤と親交があり、古関は同社専属だった。

 戦後、各種施設の慰問やタイガース子供の会を自費で立ち上げるなど、社会貢献・慈善活動に取り組むプロ野球選手としてのあり方を示した。昨年、球団が創設した「若林忠志賞」は偉大なOBとして、その功績を再認識した点で意義深い。

 田中義雄(カイザー田中)はマッキンレー高で若林の1年先輩。愛称「カイザー」はドイツ皇帝に憧れ、自ら名乗った。ハワイ大卒業後、高校教師をしていた際、若林の勧誘で37年秋に入団し正捕手となった。戦後58―59年と監督。天覧試合で指揮を執り、天皇皇后両陛下の前で最も緊張、興奮していた、と村山実が話していた。

 田中から勧誘の手紙をもらい、ハワイ大中退で来日した投手が亀田敏夫(トシ亀田)。戦前の「協和寮」に暮らした。兄・忠はイーグルス・黒鷲の投手。堀尾文人(ジミー堀尾)はカリフォルニア大から米西海岸の日系人チームでプレー。34年秋に来日し全日本軍に参加し、巨人と契約。米遠征にも参加した。米マイナー球団に移った後、阪急軍に入団。阪神には39年に移籍した。

 日米関係が悪化し、堀尾や亀田兄弟ら米国籍の2世選手は41年6月14日、米政府の命令に従い、ハワイに帰っていった。鈴木龍二は<帰国する彼らに「アメリカと戦争することなどありえない。とどまれ」とは言えなかった>と記している=『鈴木龍二回顧録』=。

 戦後になり、51年秋に来日したハワイ・レッドソックスで4番を打った小島勝治は翌52年3月に入団。左打ちの俊足で同年リーグ最多の10三塁打を記録した。小島推薦がハワイ・レッドソックスで同僚だった与儀(よぎ)真助。53年春来日のハワイ選抜で4番。途中からチームを離れ、契約した。1年目から全130試合に出場、一塁に回った藤村富美男の後の三塁を務め、ベストナインにも選ばれた。

 米本土カリフォルニア州のマタデー高出身が辻本賢人。04年ドラフト8巡目で入団。当時15歳で話題となった。芦屋にいた中学時代はボーイズリーグでダルビッシュ有と投げ合った。09年限りで自由契約。10年は米独立球団マウイ・イカイカで投げていた。=敬称略=

続きを表示

バックナンバー

もっと見る