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松山英樹が勝ったハワイの地で…39年前に青木功が「神業イーグル」世界の扉をこじ開けた

[ 2022年1月17日 14:55 ]

青木功は最終ホールで第3打が直接カップインする逆転イーグルで米ツアー初勝利を飾った。「青木神業」の見出しが躍る1983年2月15日付けのスポニチ本紙
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 松山英樹がソニー・オープン。イン・ハワイを制した。今から39年前、同じワイアラエCCで世界の扉をこじ開けた男がいた。青木功、当時40歳。米ツアーのハワイアン・オープン、初日首位に立った青木は2日目こそ5差と後退したものの3日目に65と爆発。再び首位に立った。迎えた最終日、青木は最終18番のティーグラウンドに立った。ジャック・レナーとの壮絶なデットヒート。日本は2月14日の朝。テレビ中継を凝視していたゴルフファンが後ろ髪を引かれる思いで出勤していった日本時間午前8時9分、奇跡が起きた…。

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 最終18番パー5。ティーグラウンドに立った時点で、青木は通算18アンダーでレナーと並んで首位に立っていた。飛ばし屋のレナーは青木の1組前で回っており、18番でバーディーかイーグルを奪う可能性が高かった。青木は「最低でもバーディー狙い」と1番Wを振り抜くがボールは右サイドのラフにつかまった。続く3番Wの第2打は引っかけ気味で左ラフ。ピンまでかなりの距離が残ってしまった。

 一方、レナーは18番でバーディーを決めホールアウト。青木が勝つためには最低でも第3打をピンに寄せてバーディーを奪い、プレーオフに持ち込む必要があった。

 日本のゴルフ史にさん然と輝く“伝説の一打”を前に青木と「プレーヤー・青木」を知り尽くしたキャディーの間で秘められたやりとりがあった。

 青木氏「あのショットを打つ前にキャディーのブライアンが9番アイアンを渡そうとしてきたんだ。それで残り何ヤードだと聞いたら128ヤードだという。じゃあピッチング・ウエッジ(PW)だと思ってクラブをバッグから抜こうとしたらブライアンがノーノーといってきた。でもイッツ・オッケーといってそのままPWで打ったんだよ」

 自分のクラブの番手ごとの飛距離の違いを正確に把握していたはずのキャディーのアドバイスを、青木はなぜ聞き入れなかったのか。その伏線は1980年の全米オープンで帝王ジャック・ニクラウスと優勝を争った「バルタスロールの死闘」にあった。

 青木氏「バルタスロールを練習ラウンドで回ったとき、長いコースだなと思った。でも優勝争いをして興奮したら思った以上に飛ぶようになっていた。4番ウッドでも届かなかったホールが届くんだ。アドレナリンが出ていたのかもしれないけど、クラブの番手が2つも違っていた」

 そしてもう1つ。世界を転戦しながら体に染み込ませてきた勝負勘。

 青木氏「ラフだったしフライヤーにもなる。(クラブ選択は)直感。その場の直感的な判断だった。動物(の勘)みたいなものだ。よく動物みたいだなといわれるし」

 18番の3打目のPWは冷静な判断力と研ぎ澄まされた直感力。それは青木のゴルフ人生が集約された“究極の選択”だった。

 PWを振り抜いた運命の第3打はピン手前1メートルに落ちてワンバウンドでカップの中に吸い込まれた。逆転のスーパーイーグル。プレーオフに備え18番近くに待機していたレナーは想定外の結果にぼう然とした表情を見せ、日本男子初の米ツアー優勝を飾った青木は、フェアウエーで歓喜のジャンプを繰り返した。

 その翌年、青木はディフェンディングチャンピオンとして同コースを訪れ、練習ラウンドで「運命の第3打」と同じ位置から打ってみたという。

 青木氏「9番アイアンでは届かず8番アイアンでやっとグリーンに乗ったからね。思い返すと、あの緊張した場面でよくあんなショットが打てたなと今でも不思議な感じがするよ」

 青木悲願の初Vは1974年ハワイアン・オープンから数えて米60戦目の金字塔だった。(スポニチアーカイブス2012年1月号掲載)

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