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小嶺忠敏さん死去 バス遠征の移動距離は「地球7周半」 強豪少ない地理的不利覆した熱血漢

[ 2022年1月8日 05:30 ]

小嶺忠敏さん
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 国見を率いて1987年度の初制覇を含め、全国高校サッカー選手権を6度制した小嶺忠敏(こみね・ただとし)氏が7日午前4時24分、肝不全のために長崎市内の病院で死去した。76歳だった。長崎県出身。77年の全国高校総体では島原商を長崎県勢初優勝に導き、国見では大久保嘉人、平山相太ら、多くの教え子をJリーグや日本代表に送り出した。2005年にはプロサッカークラブのV・ファーレン長崎の誕生に尽力し、初代社長を務めた。

 長崎市内の病院に入院し、意識がはっきりしない状態だった小嶺さんだが、指揮する長崎総合科学大付の試合中継が始まると、奇跡的に目を覚ましていたという。ただ、2日の3回戦で敗れたチームを見届けると7日明け方、息を引き取った。

 昨年11月14日の長崎大会決勝はベンチ入りし、2年ぶり8度目の優勝へ導いた。肝臓などに持病があったというが、最近も早朝練習や夜はサッカー部の寮で生活指導など、精力的だったという。だが、12月18日のプリンスリーグ参入戦(対鵬翔)では周囲に手を借りなければ歩けない状態。病気の詳細や選手権での指揮の可否は学校には伝えておらず、同校関係者は「最後までベンチ入りされるつもりだったと思います」とおもんぱかった。

 68年に国見の前任地、島原商へ赴任。部員13人のチームを率い、マイクロバスのハンドルを握って遠征に出向いた。71年3月に結婚し、新婚旅行から戻ったその日から部員2人を下宿させた。熱血指導は実り、77年の高校総体では初めて優勝旗を九州に持ち帰る。

 84年に赴任した国見では戦後最多タイとなる6度の選手権制覇も、当初はグラウンドがなく、ゴールは給料をはたいて買った。妥協を許さない猛練習で、人口1万人強の小さな町から多くのJリーガーが育った。家族旅行、運動会に行くことさえないほど多忙だったが「私は少しも苦労に感じない。ひとつの夢を追い求めることは何物にも代えがたい」と振り返っていた。

 「麦は踏めば踏むほど収穫はいい。踏まなければすぐに倒れて実が落ちてしまう」。幼い頃、畑仕事を手伝うと、母・ミツキさん(07年死去)から言い聞かされた。父・忠則さんは戦死、7人きょうだいの末っ子。苦しい生活を逃げ出さない勇気は母から学んだ。兄たちが学費を稼ぎ、通わせてくれた大商大で教職課程を履修した。

 代名詞となったバス遠征の移動距離は「地球7周半」。強豪が少ない地理的不利を覆した先駆けとなり、日本のサッカー地図を塗り替えたと言われる。サッカーに人生をささげた名将らしく、最後は現役のままでの旅立ちだった。

 小嶺 忠敏(こみね・ただとし)1945年(昭20)6月24日生まれ、長崎県南島原市出身。堂崎中時代はバレーボール部。島原商、大商大ではサッカー部。高校時代には九州選抜の主将を務めた。島原商、国見、長崎総合科学大付で監督を務める。国見で選手権6回、高校総体は5回、全日本ユース選手権2回の優勝がある。島原商でも高校総体優勝1回。07年には参院選長崎選挙区から自民党公認で立候補した。長崎総合科学大特任教授。家族は厚子夫人と3女。

 ▼仙台大サッカー部コーチ平山相太氏 小嶺先生のように、サッカーを通して選手の成長をサポートできる指導者を目指したい。(国見高時代に全国高校選手権で大会最多記録の通算17得点)

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