内田裕也さんが貫いた“生きざま”「ニューイヤーロックフェス」と被災地支援

[ 2019年3月18日 17:24 ]

国会議事堂前で「ニューイヤーロックフェスティバル」のPRをする(左から)HIRO、シーナ&ロケッツの鮎川誠、内田裕也さん、シーナ&ロケッツのシーナさん、ジョー山中さん(2003年撮影)
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 ロック歌手で映画俳優としても活躍した内田裕也(うちだ・ゆうや、本名内田雄也)さんが17日5時33分、肺炎のため、東京都内の病院で死去した。79歳。晩年は病気やケガと闘う日々が続いたが、17~18年の自身が主催する恒例の年越しライブ「ニューイヤーロックフェスティバル」は車椅子で出演。執念で立ち上がり、熱唱する姿は観客の心を打った。ロック界のカリスマは最期まで音楽を愛し続けた。

 エルビス・プレスリーに憧れて高校を中退し、1957年にバンドボーイとして音楽活動をスタートさせた。58年にブルージーン・バップスを結成し59年にデビュー。66年のビートルズ日本公演では尾藤イサオ(75)らとの特別編成のバンドで前座を務めた。

 同年、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」で活動していた沢田研二(70)らをスカウト。これが後のザ・タイガースとなった。67年には麻生レミをボーカルに据えて結成したフラワーズにジョー山中さんらが参加し、フラワー・トラベリン・バンドとして再編成。アルバムがカナダチャートで8位を記録するなど海外でも活躍し、邦楽ロックの礎を築いた。
 
 「打倒!NHK紅白歌合戦」を掲げて73年に始めた年越しライブ「ニューイヤーロックフェスティバル」は年末年始の風物詩に。アーティストによる大みそかカウントダウン公演が一般化する前から手掛けたイベントだった。

 日本ロックの振興に大きく貢献する一方、阪神大震災、東日本大震災発生後はいち早く被災地に入り、ジョー山中さんや安岡力也さんら“ファミリー”を引き連れ炊き出しなどを行った。“ロケンロール”と“ラブ&ピース”を貫いた人生だった。

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2019年3月18日のニュース