「やる気スイッチを探して押す」のが役割 初の決勝進出、福井工大・下野博樹監督はこんな人物

[ 2021年6月13日 05:30 ]

第70回全日本大学野球選手権・準決勝   福井工大2―0福岡大 ( 2021年6月12日    神宮 )

<福岡大・福井工大>初の決勝進出を決めた福井工大・下野監督はカメラに向かってVサイン(撮影・村上 大輔)
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 体重130キロの大きな体格にたたえる柔和な笑みが、懐の大きさを感じさせる。43回目の出場で初めて決勝の舞台にたどり着いた福井工大・下野博樹監督(60)。13日午後1時から始まる決勝戦を前に、ネット上でも話題となっている指揮官の半生に迫る。

 福井県敦賀市生まれ。敦賀高で野球を始めるまでチームでのプレー経験はなく、中学時代は卓球部に所属。福井県3位に輝き、愛知、大阪の高校からスカウトされるほど、スポーツ万能だった。福井工大を経て、1983年に電電北陸入社。捕手として12年間プレーした。

 電電公社の民営化に伴い、NTT北陸となって2年目の86年には都市対抗で準優勝。オール名古屋選抜の台湾遠征では、5歳下の古田敦也氏(当時トヨタ自動車)と同部屋になった。「野球の実力は雲泥の差がありましたが、私のパンツを洗ってもらったのが自慢です」とユーモアたっぷりに振り返る。

 94年に一度引退。NTT北陸最後の1年となった99年には監督に就任。5年ぶりに現役復帰も果たすと、わずか15人のプレーヤーで都市対抗出場を成し遂げた。「1年だけですけど、元社会人監督という肩書をいただいた。それが今につながったと思っています」。2009年に同大初の母校出身監督に就任。初めて全日本に出場した11年には九州共立大に2―5で1回戦敗退。川満寛弥(元ロッテ)にいとも簡単にひねられたが、そこから10年連続出場。今大会出場校の中では、もちろん最長だ。

 「母校だから、全員が後輩。平等にはならないかもしれませんが、全員に経験をさせてあげたい」と話す指揮官の指導方針を形作ったのは、現役引退後の00年から08年まで、社業に専念した9年間。石川県金沢市のコールセンターで、クレーム対応に従事した。「野球しか39歳までしてこなかった自分がお客様対応したときに、野球の物差しってなんて短いんだろう、と。この9年間で自分の物差しを広げることができた」。老若男女から時には罵詈(ばり)雑言を飛ばされたこともあるが、どんな意見にも耳を傾けることの大切さを学んだ。

 だからこそ、重要視するのは“聞く力”だ。「昔は鉄拳制裁の時代でしたが、今ではありえない。頑固ジジイみたいに“オレの言うことを聞け!”でも伝わらない。まず学生たちの話を聞くこと。参考にしているのはCMで“やる気スイッチ”ってありますよね。彼らの“やる気スイッチ”を探して押す、そこからです」。就任以来、金沢市内の自宅から単身赴任を続け、福井市内で寮監として、学生たちと同じ空間で生活。自宅の妻から送られてくる本や、偉人の格言をネットで探してノートに書き留め、自身の“言葉力”の向上にも努めてきた。準決勝までに大会タイ記録の11安打を放った木村哲汰(4年=沖縄尚学)の活躍を「彼のバットは打ち出の小づち」。胴上げに話題が及ぶと、選手たちに「そのためにウエートトレーニングしてきたんだよな」と冗談を飛ばす。上から目線ではなく、寄り添うことを第一とした結果、ユーモラスな監督像が確立された。

 東京入りしてからは髭も剃らず、靴下やパンツは同じものを着用。6日連続であんかけ焼きそばを食すなど、験担ぎを大切にする側面もある。雪国のハンデを乗り越えるため、いいと思った選手には真っ先に声を掛け、あえて天気の悪い日を選んで足を運ぶなど、地道なスカウト活動にも精を出してきた。沖縄出身の木村もその中の一人だ。「この体を上げてくれるかどうかというのが、皆さん思っているところだと思います。それを夢見て、流れを前面に出して慶応さんに挑んでいきたい」。失うものは何もない。北陸の雄として、陸の王者に真っ向から立ち向かい、宙に舞う。
 

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