新庄が「タムジイさん」と呼んだ変則左腕 ケガに苦しんだ野球人生 後輩にエール“長く野球を楽しんで”

[ 2021年1月7日 10:00 ]

猛虎の血―タテジマ戦士のその後―(1)田村勤さん

<元阪神・田村勤氏インタビュー> 現在は西宮市内で「田村整骨院」を営む田村勤さん(撮影・大森 寛明)
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 ルーキーたちが胸躍らせて、プロの第一歩を踏み出すこの時期。それを温かい目で見守るかつての虎戦士たちがいる。ユニホームを脱いだ後も、ネクストステージで猛虎魂を胸に歩み続けるOBたちのストーリーと今を追った。

 02年10月、オリックスで現役を引退した田村勤は、立ち寄ったコンビニで求人誌を手にした。37歳の元プロ野球選手。次になにをするか具体的なものはなかった。在籍した阪神を頼るということも選択肢にはなかった。

 「こだわりがあったんですよ。選手としてプロで全うしたい。球団で仕事ができるのは一握りの求められた人だけと思っていた。極端に考えていたのかもしれないけど」

 求人誌を読んで分かったことがあった。第2の人生を考えるのには、35歳がひとつのライン。37は少し遅い。現実を知った。自分の力でやっていくしかないと決めた。知人の紹介で大経大のコーチをしながら、恩師である駒大時代の監督・太田誠に相談した。「ケガで苦労したんだから、その経験を生かした仕事を考えたらいいんじゃないか」。進むべき道が見えたと思った。

 田村は左からのサイドスローでキレのある球を投げ、92、93年と阪神の守護神として活躍。甲子園でのロッカーは隣が新庄剛志だった。屈託なく「タムジイ」と声をかける若きスターに「年上に対して呼び捨てはないだろ」と怒ったフリをみせると、翌日からは「タムジイさん」に変わった。「憎めないし、派手に見えるが、純粋に野球に打ち込む面があった」と当時を懐かしんだ。

 92年にはヤクルトと激しい優勝争いを演じた。ピンチなら田村。期待に応えてきた分、肩には負荷がかかった。「特殊な投げ方で、他人には投げられない球の質だから打たれなかった。下半身でボールを運ぶことだけを意識していたから、肩や腕のことは無視していた。それで痛めたんでしょうね」。体を痛めることなく、野球を長く楽しんでもらいたい。そのための方法を伝えることがライフワークになった。

 05年12月、西宮市市庭町に田村整骨院を開業。地域の人たちの体のケアをしながら、スペースの半分にはネットを張り、スピードガンも用意して子供たちへの野球指導を行っている。また、藤枝明誠、金沢龍谷での投手指導に週末は足を運んでいる。

 かつて体の手入れをしたことがある選手が、阪神でプレーをしている。関学大野球部時代に治療院に通ってきた。「淡路島から出てきて、頑張っているという話を聞いていた」。それが2年連続盗塁王の近本光司。見守る田村の目が温かかった。 =敬称略= (鈴木 光)

 ◆田村 勤(たむら・つとむ)1965年(昭40)8月18日生まれ。静岡県出身の55歳。島田―駒大―本田技研―阪神(90年ドラフト4位)―オリックス。左の守護神としてプロ通算13勝12敗54Sを記録した。

 ※今企画は、YouTubeの「スポニチチャンネル」と連動。インタビュー動画も配信しています。併せてお楽しみください。

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