日本製鉄鹿島・中島監督 天国の恩師・木内氏に白星届けられず「戒められた思い」

[ 2020年11月26日 05:30 ]

都市対抗野球第4日・1回戦   日本製鉄鹿島6―7三菱重工広島 ( 2020年11月25日    東京D )

<日本製鉄鹿島・三菱重工広島>試合に敗れ三菱重工広島・町田監督(右から)とあいさつする日本製鉄鹿島・中島監督(撮影・島崎忠彦)
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 1回戦3試合が行われ、日本製鉄鹿島(鹿嶋市)は三菱重工広島(広島市)に6―7で敗れた。日本製鉄鹿島・中島彰一監督(54)は、前日逝去した木内幸男氏の取手二監督時代の教え子で、84年夏の甲子園優勝時の捕手。恩師に白星をささげることはできなかったが、粘り強い野球を展開した。

 携帯電話の着信音が鳴りやまなかった。前夜。中島彰一監督の元に悲報が届いた。取手二3年の時、84年夏の甲子園で優勝に導いてくれた木内幸男監督が死去。関係者と恩師を悼む会話を重ね、勝利への思いは強くなった。

 「負けられないよね。(木内氏は)絶対、見ている」

 エース・飯田も同じだった。木内氏が最後に指揮を執った11年、常総学院の1年生だった。木内氏の最後の教え子の一人。高崎中3年の時にその木内氏から誘いを受けて常総学院に進んだ。「全国優勝した監督から声を掛けてもらった」。今でもその時の光景を鮮明に覚えている。同じ名将の薫陶を受けた者同士。中島監督は飯田と、あえて恩師の話をせず、ただ「とにかく頑張ろう」とだけ声を掛けて、マウンドに送り出した。

 「今日という日は特別な日。恩返しの投球を」。意気込んだ飯田だが、直球が走らず変化球も生きなかった。それでも、直球の球速を変えて緩急をつけ、無走者でもクイックで投げるなど、工夫を凝らした。名将の下で学んだスタイル。それでも3失点で2回2/3で無念の降板となり「自分の投球が敗因になった。申し訳ない…」と肩を落とした。

 4回に3点差を追いつき同点。再び4点差となったが、7回に高畠の2ランなどで1点差に迫った。名将が得意とした粘り強い野球。「“勝負にもっと厳しく、1戦に対する思い、より激しくいかないといけないよ”と戒められた思いです」。届かなかった白星は中島監督にとって、名将からの宿題になった。(柳内 遼平)

 ◆中島 彰一(なかじま・しょういち)1966年(昭41)7月1日生まれ、茨城県出身の54歳。取手二高時代は木内幸男監督の下、主に捕手として甲子園に春2回、夏1回出場。84年夏の決勝のPL学園戦で決勝3ランを放った。東洋大を経て住友金属鹿島(現日本製鉄鹿島)で9年間プレー。コーチを経て02年から7年間、監督を務めた。15年12月に監督復帰。元社会人日本代表コーチ。1メートル75、88キロ。右投げ右打ち。

 ▼84年夏の甲子園決勝 桑田、清原のKKコンビを擁し2連覇を狙うPL学園に対し、取手二は初回に2点先制。4―3とリードして迎えた9回、PL学園の1番・清水哲に同点ソロを浴び、土壇場で追いつかれ延長戦に突入した。10回表、1死一、二塁から5番・中島(日本製鉄鹿島監督)が、桑田の高めのボール球を強引に叩いて左中間へ勝ち越し3ラン。さらに長短打で計4点を奪い、8―4で茨城県勢初優勝を果たした。

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