【内田雅也の猛虎監督列伝~<7>第7代・松木謙治郎】「引き抜き」の後、「苦」を背負った「一家」の主

[ 2020年4月26日 08:00 ]

阪神・毎日定期戦で握手を交わす毎日・若林監督(左)と阪神・松木謙治郎監督=若林忠晴氏所蔵=
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 球界再編で若林忠志ら主力が新球団・毎日に大量移籍した後、監督に復帰したのが松木謙治郎である。沖縄戦で捕虜となり、復員後は大阪で町工場を経営していた。

 1949(昭和24)年12月、常務・田中義一から土井垣武引き留めには「あなたが監督でないと押さえられぬ」と要請され内諾した。『戦後プロ野球史発掘』(恒文社)で、松木が田中の言葉として「今から奈良に行く」と話しており、巨人帯同遠征の日程からみれば12月13日のことだろう。正式発表は年の瀬30日だった。

 その土井垣も毎日入りし、若林、別当薫、呉昌征、本堂保次ら主力が大量に抜けた。骨抜きにされたチームの再建に松木は初心に帰った。前回監督当時の「30」ではなく、初代主将だった現役当時の背番号「9」をユニホームに縫い付けた。退団後8年、41歳で現役復帰して選手兼任で陣頭指揮をとった。「9」は「苦」に通じていた。

 松木は「山中鹿助の心境だ」と話した。戦国時代、家の再興に「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話を引いた。「火中の栗を拾う気だった。しかし、あの沖縄戦で死線を巡ってきたことを思えば、何一つ恐れるものはなかった」

 当時マネジャーの奥井成一は週刊ベースボールに寄せた『わが40年の告白』で<松木さんの厳格な態度に反発する者は一人もいなかった。チーム再建にかける監督の胸中を知っていたからだろう。“松木一家”であった>と記している。

 復帰1年目の50年、オーダーは日替わりでやりくりした。4月22日の中日戦(熊本・水前寺)では助監督でもあった藤村富美男の助言を受けいれ、1番に偵察要員として投手の干場一夫を入れた。プロ野球史上初の「当て馬作戦」だった。

 最下位予想を覆し、50年は8球団中4位。Aクラス入りに球団から特別ボーナスが出た。

 翌年からも3、2、2、3位と監督を務めた5年間、常時Aクラスを確保した。藤村や金田正泰ら幹部選手に加え、後藤次男、田宮謙次郎ら登用した若手が成長した。52年には日鉄二瀬から入団した新人の三船正俊を開幕投手に抜てきすると何と完封をやってのけた。

 松木時代に入団した渡辺省三、小山正明、吉田義男、三宅秀史、山本哲也……らは62年優勝の主力となった。土台作りの功績は大きい。

 松木退団の原因となったのは54年7月25日の「大阪球場事件」である。まだ甲子園球場にナイター設備のなかった阪神は南海本拠地の大阪球場を借りて試合を組んでいた。その中日戦で球史に残る大騒動が起きた。

 延長10回裏、代打・真田重蔵カウント2―2からのファウルチップを捕手・河合保彦が直接捕球したとして球審・杉村正一郎は三振を宣告した。ベンチから飛び出した藤村が杉村の肩を突いた。

 一塁コーチボックスにいた松木は「河合はミットに当たった後、土とともにすくい上げた」とよく見えた。「私が退場になればいい」と考え、覚悟のうえで杉村を腰投げ、足払いをかけた。藤村には連続試合出場が途切れるのを防ぐ意味があった。ファンがグラウンドになだれ込んできた。

 松木は退場となった。だが打順の回った藤村が打席に向かおうとすると杉村は「君は退場させられている」と告げた。再びファンがなだれ込み、試合再開は不能。阪神の放棄試合となった。

 27日からの巨人戦も松木、藤村とも出場。連盟は31日、藤村に20日間、松木に5日間の出場停止という裁定を下した。藤村の連続出場は1014試合で止まった。

 松木は著書『タイガースの生いたち』(恒文社)で<この時すでにシーズン末の退団を決意していた>と書いている。

 先の書『――発掘』で松木はこの7・25事件が辞任の原因かという問いに「そうじゃないんです」と否定している。月給は手取り12万円余り。監督の体面で列車は二等に自費で切り替え、食堂車で選手におごり、冠婚葬祭に飲食代……と「経済的に行き詰まった」。

 これは聞き手が事件当時の連盟会長・鈴木龍二だったため、話をごまかしたのだろう。暴力行為を反省し、事件の責任を取って潔く身を退いたのだった。=敬称略=(編集委員)

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