【内田雅也の猛虎監督列伝~<5>第5代・藤村富美男】焦土からの復活に勇んだ、1人3役の猛将

[ 2020年4月24日 08:00 ]

戦後1946年のメンバー。12人がうつっている。後列中央が監督兼任の藤村富美男=阪神球団発行『タイガース30年史』より=

 終戦の1945(昭和20)年8月15日、藤村富美男は福岡県折尾近くの山中にいた。「国土防衛の陣地構築をやっていた」と対談集『戦後プロ野球史復活』(恒文社)で話している。「タイガースでは私が原爆でやられたと思っていた」。7月に広島から移っていた。

 39年1月に召集された後、幾度も生死の境をさまよった。仏印(今のベトナム)から華南(中国南部)へ行軍する際、谷に転落、左大腿(だいたい)部に重傷を負い、野戦病院に入った。切断が必要とされたが手術で免れた。42年2月のシンガポール陥落後、ジャワ島への輸送船に乗船、魚雷攻撃を受け撃沈された。南の海を5時間も漂流し駆潜艇に救助された。

 終戦直後、呉の実家に帰ると、進駐軍の雑役で人間魚雷「回天」の解体作業を行っていた。日本野球連盟関西支局長・小島善平から「スグカエレ」と電報が届いた。秋に東西対抗を行うとの連絡で「また野球がやれる」と喜びで体が震えた。

 甲子園球場は進駐軍に接収され、西宮・今津にあった合宿所(後の藤村自宅)近くの空き地でキャッチボールを行った。11月23日、神宮(接収中でステートサイドパーク)での東西対抗戦は西軍の3番二塁で出場。ランニング本塁打を放った。ホームラン賞はふかしたサツマイモ3個だった。

 阪神は山形・米沢の実家から球団専務・冨樫興一を呼び戻し、常務・田中義一と選手集めを始めたが、監督兼投手の若林忠志は妻・房の郷里、宮城県石巻市に帰り、水産会社を経営。田中義雄も進駐軍の軍属で札幌のホテルに勤務していた。

 年が明けて46年、正月大会は選手10人、3月の毎日杯は9人で、評論家・大井広介によると<阪神電鉄の社員から愛球家を一名借りてきて、ユニフォームを着せたという実話がある>=『タイガース史』(ベースボール・マガジン社)=。

 若林復帰の見通しが立たず、藤村は代理監督、後に正式に監督となった。金田正泰らが復帰し12人で4月27日の開幕を迎えた。投手不足から藤村自ら登板し5番、三塁を守れば3、4番を打った。監督としては御園生崇男と渡辺誠太郎を投手・一塁で交互に、呉昌征を投手・中堅で起用するなどやりくり用兵を見せた。藤村は監督、投手、打者の1人3役をこなし「猛将」と呼ばれた。

 弱い投手陣を打線が補い、6月24日から7月21日まで今も球団記録の14連勝(37年以来2度目)で首位に立った。この頃、日刊スポーツ記者・高山方明が「ダイナマイト打線」と名づけた。

 しかし、8月23日、藤村の妻・千鶴子が感染症の面疔(めんちょう)の手術から急死。チームを離れた。葬儀翌日に父・鉄次郎も他界と不幸が相次いだ。藤村離脱でチームは下降線をたどった。

 チームの苦闘に若林は9月22日の巨人戦(後楽園)から復帰したが時すでに遅く、優勝は近畿に譲った。巨人、阪神以外の優勝は史上初めてだった。藤村は投手で13勝、打者で打率3割2分3厘と投打に活躍。本塁打5本ながら、後の豪打の片りんを見せている。

 大井が先の書で<秘話>として書いている。復帰した若林が藤村に「君が監督だということにして、指揮だけ僕にやらせてくれ。きっと優勝してみせる」と申し入れ、拒否されたとある。南萬満は藤村の評伝『真虎伝』(新評論)で<この話が事実として、富美男が若林の申し入れを受けていたらと思う>と記した。

 3位に終わったシーズン終了後、監督交代となった。半年だけ監督だった藤村は冒頭の対談集で大和球士に「この際ひとつプレーヤーとして思うようにやったほうがいいというので、若林さんに監督を譲ったわけなんですよ」と話している。=敬称略=(編集委員)

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