【高校野球100年】消えたラッキーゾーン 帝京ノーアーチで“初代”V

[ 2015年6月23日 10:31 ]

92年、ラッキーゾーン撤廃後初のセンバツで優勝し、歓喜爆発の帝京ナイン

 高校野球の聖地・甲子園球場の歴史で、1991年オフに設備面で大きな転換があった。47年から設置されていたラッキーゾーンの撤廃だ。撤廃後、初めて行われた92年センバツを制したのが帝京(東京)だった。歴代3位タイの甲子園春夏通算51勝を挙げている帝京・前田三夫監督(66)は甲子園の規格変更をどう捉えたのか。球児の戦い方は変わったのか。名将が振り返った。

 甲子園に日本の球場で初めてラッキーゾーンが登場したのは1947年5月26日。外野ポール際から左中間、右中間付近まで金網が設置された。“野球の華”とも言われる本塁打が出やすいように設置されたラッキーゾーンだが、その後のバットやボールなどの品質向上などもあって、本塁打は年々増加。外野が広い新球場が次々と建設されるに伴い、他球場と足並みをそろえる形で91年12月5日に撤去された。

 撤廃直前の91年夏に8強入りしていた帝京は、秋の新チームも東京都大会を制して翌年センバツ出場を確実にした。ラッキーゾーンの撤廃で甲子園は両翼が91メートルから96メートルに。左中間、右中間の最深部は撤廃前と比べると11・5メートルも広くなったことに、前田監督は「どれだけ飛ばせばいいんだと思った」と振り返るが、対策は講じていた。

 右中間と左中間が深くなることで守備範囲が広がるとあって、強肩俊足の選手で外野手と二遊間を固めた。当時チーム事情で二塁手を務めていたチーム一の強肩外野手・宮崎を右翼へ再コンバート。左翼には投手出身の吉岡、中堅に三田村と強肩をそろえた。さらに二塁打、三塁打対策として中継プレーの練習を徹底。「中継練習はもの凄くやった。特に二塁手は今までより右翼手に近づけと。三塁打を防ぐために三塁で刺す練習もしたね」。一方で攻撃面では、積極的に次の塁を狙うことを徹底させた。

 迎えたセンバツ。初戦は日高(和歌山)相手に1―0で辛勝も、2回戦以降は打撃が息を吹き返した。準々決勝・三重戦は大会最多タイの1試合6二塁打をマーク。東海大相模との決勝は1点リードの9回2死二塁、右前打を許したが、右翼にコンバートした宮崎が好返球してゲームセット。初のセンバツ優勝を手にした。星稜・松井秀喜が開幕戦でいきなり2打席連続アーチを放ったものの、前田監督の読み通り大会通算本塁打は前年の18から7本と激減。一方で三塁打は16から30本と約倍増。帝京打線もノーアーチながら二、三塁打は計14本で「つなごうという意識が強かった。中距離打者が多かったから、広くなった甲子園は良かったのかもしれない」と前田監督。広くなった甲子園の対応策が、ズバリ的中した形となった。

 だが、撤廃から24年。さらなる選手の技術や体力、道具の向上でセンバツは04年に23本塁打、夏は06年に60本塁打と「広くなった甲子園」の概念はもうない。本塁打が試合を左右することも多く前田監督も「今は空中戦が多くなった。一発で決まる試合が増えた。やはり飛ばせるようになったから、そこを追求しないとこれからは勝負にならない気がするな」と話す。

 時代とともに変化する甲子園。それと同じように高校野球の戦い方も変わっていく。

 ◆前田 三夫(まえだ・みつお)1949年(昭24)6月6日、千葉県袖ケ浦市生まれの66歳。木更津中央(現木更津総合)―帝京大と内野手。73年に帝京監督就任。甲子園は78年センバツで初出場。春夏通算26度目で51勝23敗。春1度、夏2度の優勝。主な教え子は伊東昭光(ヤクルト2軍監督)、森本稀哲(西武)、中村晃(ソフトバンク)ら。

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