村田兆治さん死去 OBが球界が悲痛…張本氏「何度も対戦した好敵手」有藤氏「一直線に生きた野球人」

[ 2022年11月12日 05:16 ]

村田兆治さん死去

87年、完封勝利の村田は有藤監督とガッチリ握手
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 ▼張本勲氏(スポニチ本紙評論家)世の中、こんなことがあるのか。本当に残念でならない。マサカリ投法。私が東映、日本ハムの時は何度も対戦した好敵手だった。通算で121打席。彼は豪快なフォームからの剛速球とフォークの2種類だけで215勝もの白星を挙げた。本当にたいしたものだと思う。ロッテでも2年間、一緒にプレーした。

 名球会でもゴルフに行ったり、野球教室を開催したり。長く一緒に活動した。昭和の純粋な男。頑固一徹な面もあった。9月に暴行容疑で逮捕された時には、留守番電話に「そんなことをしては駄目だ。また、野球教室で会おう」と言葉を残したが…。離島での子供の野球振興活動などを熱心に続ける、非常に熱い男だった。言葉が出ない。本当に惜しい男を亡くした。


 ▼有藤通世氏(スポニチ本紙評論家)2年前にロッテの球団イベントで74年日本一メンバーが集まった時に会ったのが最後になってしまった。若い時から物凄い速い球を投げていた。71年に米アリゾナ州で春季キャンプを行ったのだが、オープン戦で兆治はエンゼルス打線を完璧に抑えた。今より大リーグとの力の差が大きい時代で、あれが自信になったと思う。

 あれほど自分に厳しい投手はいない。エースたるものチームの勝敗は全て背負う強い信念を持っていた。マウンドと同様に何びとの意見も受け入れない頑固さがあったが、金田(正一)さんだけは信頼し、慕っていた。本当に一直線に生きた野球人だった。寂しいよ。

 ▼落合博満氏 ロッテに入団(1979年)した時は絶対的エースでね、他を寄せ付けないオーラがあって本当に怖い存在でした。(83年に)右肘を手術されても85年、稲尾監督の時に完全復活されて開幕から11連勝して「サンデー兆治」と言われてね、凄い選手だなと思って見ていました。

 あまり話をすることはなかったですが、初めて首位打者を獲得した81年の西武戦前に村田さんから「俺は(首位打者を争っていた)石毛と勝負するから打たれたらごめんな」と言われたことを凄く覚えています。最近お会いしたのは18年8月にロッテオリオンズ誕生50年の特別試合(東京ドーム)として行われた西武との試合前セレモニーで、ご一緒させていただいたのが最後です。今は心よりご冥福をお祈りします。

 ▼牛島和彦氏(スポニチ本紙評論家)本当に強い人だと思っていたのでショック。今だから話せるのだが、(86年オフに)中日からロッテにトレードされた時、村田さんから「俺が球団に牛島を獲ってくれとお願いしたんだ」と明かされた。先発完投のイメージが強いが、通算200勝を目前にしてストッパーとして頼ってもらえたと思う。もちろん意気に感じた。村田さんの投げた試合では1試合しか救援失敗していない。

 先発に転向する時に調整方法を相談すると「俺についてこい!」とキャンプで一緒に練習してくださった。とにかくハードに練習する方で、膝に水がたまった時など「それほど練習したんだな」とむしろうれしそうにしていた。思い出は尽きない。


 ▼東尾修氏(スポニチ本紙評論家)兆治さんのような「頑固なエース」は今の時代にはいないだろう。現役時代はそれこそ何度も一緒に投げ合い、同じ時代のパ・リーグで覇を競った。当時は近鉄の鈴木啓示さん、阪急の山田久志さん…。個性豊かなエースが大勢いた。そんな中でも兆治さんは野球に対しても頑固。負けん気も非常に強かった。

 マサカリ投法からの直球とフォーク。70年代に野村克也さんが南海監督で、ブレイザーが三塁コーチを務めていた時だ。兆治さんのフォームはボールの握りが丸見えで、ブレイザーはフォークを投げる時に口笛で打者に伝えていた。兆治さんは怒って、それでもムキになって、意地でフォークを投げ続けた。まさに頑固な男だった。驚いたし、本当に残念。心からご冥福をお祈りしたい。

 ≪北別府氏“願い”継ぐ≫元広島エースの北別府学氏が、亡くなった村田兆治氏を追悼した。「野球の一本道を歩んで来られた方」のタイトルで自身のブログを更新。最後に会った際に「今後も野球の環境が整っていない地域の子供たちへ一緒に野球を教えに行ってほしい」と頼まれたという。昨年まで共に沢村賞の選考委員を務めた間柄。北別府氏は「いつお会いしても野球の話しかされない方、一本気であり本当に野球の一本道を歩まれてきた方でした。もう一度お会いして野球の話がしたかった!」とつづった。

 ▼レオン・リー氏(兄レロン氏と兄弟でロッテ時代にチームメート)突然の訃報に大変驚いている。彼とは数多くの思い出があった。来年度は、兄弟で来日しようと思っていたので大変残念。72歳の生涯は短すぎだ。

 ▼ソフトバンク・王貞治球団会長 ホークス監督時代に3年間一緒にやってくれましたが、ずいぶんと苦労をかけてしまった。最近でも離島の子供たちに元気に野球を指導していたので、まさかこんなことになるとは思わなかった。ご冥福をお祈りします。

 ▼鈴木啓示氏(スポニチ本紙評論家)いろいろな亡くなり方があると思うが、この最期は寂しすぎる。畳の上で死ねるというのが、いかに幸せなことか…。現役時代の彼はまさしくパワーピッチャーだった。マサカリ投法という、あの投げ方は彼にしかできない。

 ▼ソフトバンク・藤本監督 村田さんとは投手コーチと選手という形でよく声をかけてもらった。試合に出られなかったら「腐るなよ」と。そういう言葉ももらったから、凄く寂しい思いです。

 ▼DeNA・三浦監督 食事とかに行ったことはありませんが、球場でお会いした時、「頑張れよ」と気さくに声をかけていただきました。びっくりしています。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 ▼中日・立浪監督 野球に対して素晴らしい向き合い方をされていて、憧れでもあった。このような形でお亡くなりになり残念。

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