村田兆治さん「子供たちのために80まで頑張る」釈放後に野球界への恩返しを誓っていたのに…

[ 2022年11月12日 05:16 ]

村田兆治さん死去

17日、広島県府中市で行われた野球教室で指導する村田氏
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 深夜の誓いからわずか47日後の悲劇…。9月23日の羽田空港での暴行容疑による逮捕から釈放された同25日に都内の自宅付近で取材した花里雄太記者(38)が、事件を反省し、今後に向けた決意などを熱く語っていた「昭和生まれの明治男」の当時の様子を振り返った。

 まさか、こんな最期を迎えるとは、今でも信じられない。ヤクルトがセ・リーグ連覇を決めた9月25日の午後10時ごろ。今回亡くなられた自宅近くの公園で村田さんの口調は熱を帯びていた。

 記者は現役時代を知らず、昔の映像やマスターズリーグでの投球しか見たことがなかった。頑固一徹な性格で「昭和生まれの明治男」とも呼ばれるレジェンドの初取材で、しかも釈放直後。緊張しながら現場へ向かった。70歳を過ぎても大柄な体格を維持し威圧感も感じたが事件の経緯を丁寧に話してくれ、いつしか緊張は解けていた。「触れたのは事実は事実。女性に誠心誠意、謝りたい」と何度も口にしていた女性への謝罪とともに「夢と希望を伝授しながら行動は責任を持ってやっているつもりだった」と子供たちへの裏切りだと自責の念に駆られていた。

 村田さんは08年に全国離島交流中学生野球大会(通称・離島甲子園)を提唱。全国の離島を精力的に巡り、大会や野球教室を開催していた。その中から昨秋ドラフトで佐渡島出身の菊地大稀投手が巨人入り。4月の1軍デビューを喜んでいた。自らの失態を深く反省した上で、今後について「75、76歳で(活動を)やめようと思っていたけど人生に引退はない。子供たちのために80まで頑張る。老体にムチを打って骨が折れるかもだけど」と野球界への恩返しを続けることを誓っていた。

 話の合間には動画班の持っていたハンディーカメラをフォークの握りでつかむパフォーマンスも披露した。スタッフがカメラを揺すっても外れず「なめんなよ」とニヤリ。伝家の宝刀・フォークを投げ続けた、衰え知らずの指先の力にも驚いた。

 まだまだ野球界のために貢献してくれるものだと信じていた。現役時代は「サンデー兆治」とも呼ばれた村田さん。あの深夜の誓いも日曜日だった。わずか47日後に届いた悲報。今はただ、心よりご冥福をお祈りしたい。(花里 雄太)

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2022年11月12日のニュース