21年追悼 スポーツ界の名士たち 悲しき別れ…感動をありがとう、安らかに

[ 2021年12月31日 05:30 ]

92年、バルセロナ五輪で金メダルを獲得した古賀稔彦さん
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 2021年は2年続けて新型コロナウイルスの感染拡大が猛威を振るう中で、夏の東京五輪では史上最多58個のメダルを獲得し、パラリンピックでは2004年アテネ大会に次ぐ51個のメダルを獲得して幕を閉じた。そんなスポーツイヤーの今年、柔道界や相撲界など他のスポーツ界の名選手らの訃報が届いた。

 ≪「平成の三四郎」古賀稔彦さん ケガ負いながらバルセロナ五輪金≫「平成の三四郎」こと古賀稔彦さんが奇跡的な金メダル獲得を成し遂げたのが92年バルセロナ五輪だった。本番10日前の調整練習で柔道私塾・講道学舎の後輩に当たる吉田秀彦との稽古中に左膝じん帯損傷で全治1カ月の大ケガ。歩くこともままならない状態だったが痛み止めを打って畳に立つと、伝家の宝刀だった一本背負い投げを極力封印しながらも金メダル。日本中に感動を呼び起こした。

 90年には体重無差別で争われる全日本選手権で準優勝。決勝では71キロ級(当時)の自身より50キロ以上重い小川直也に立ち向かい、敗れたものの「柔よく剛を制す」を体現した。指導者としても五輪2連覇の谷本歩実らを育成。03年には町道場の古賀塾を設立するなど、指導者としても一流だった。

 ≪“爆撃機”の異名 ゲルト・ミュラーさん≫ゲルト・ミュラーさんはサッカー界で“爆撃機”の異名を取った。1メートル75と決して大柄ではないが、抜群の得点感覚とポジショニングでゴールを量産。西ドイツ代表で62戦68得点と驚異的な決定力を誇り、70年W杯メキシコ大会は10得点で得点王に輝いた。地元開催だった74年W杯はオランダとの決勝で優勝を決めるゴール。同い年でBミュンヘンと代表を支えた“皇帝”ベッケンバウアー氏は「我々は兄弟のようだった」と別れを惜しんだ。

 ≪“餓狼作戦”善戦 ラグビー元日本代表監督 日比野弘さん≫初取材の記者に対し「これでも現役時代は足が速いWTBで有名だったんだよ」と笑っておなかをさするのが常だった。日比野弘さんは早大1年から活躍し、日本代表キャップ3。早大監督を3度務めて70年にはラグビー日本一に導き、日本代表の監督も3度務めた。理論的・科学的なアプローチで知られるが、83年には松尾雄治主将らに「餓(う)えたオオカミになれ」と説いた“餓狼作戦”でウェールズを追い詰めた。指導者だけでなく大学教授、解説者としても多くの“教え子”を持つ人格者だった。

 ≪突っ張りで魅了 元関脇・麒麟児≫3月に67歳で死去した元関脇・麒麟児の垂沢和春さんは激しい突っ張りを武器に長く幕内を務めた。北の湖、2代目若乃花らを生んだ昭和28年(1953年)生まれ。「花のニッパチ組」の一角として土俵を沸かせた。富士桜との激闘は毎回好勝負を展開。天覧相撲だった75年夏場所8日目の対戦では、計108発に及ぶ突っ張り合いの応酬で昭和天皇が身を乗り出して観戦されたという逸話も残る。2015年夏に頭部の腫瘍摘出手術を受けた影響で体調を崩していた。

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2021年12月31日のニュース