追悼連載~「コービー激動の41年」その5 困惑からのリスタート

[ 2020年2月21日 09:00 ]

現在は「ブライアント体育館」と名付けられたローワー・メリオン高校の体育館(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】コービー・ブライアントの父ジョーはイタリアでのプロ生活を終えると高校のアシスタント・コーチ業を始めた。困惑したのはイタリアに引っ越したときと同様、3人の子どもたち。コービーはペンシルベニア州フィラデルフィア郊外にあるバラ・キンウッド中学(義務教育の8年生)に編入したもののクラスメートに黒人はいない。しかも英語にはイタリア語のアクセントが残り、いじめられる条件はすべてそろっていた。

 「イタリアでは土曜日に学校に行くことはなかった。戻ってきたら学校の規模も大きいし、慣れるまでには時間がかかった。常に物事にポジティブかネガティブかのどちらかを求められたことも大きな違い。それに対応することで人間関係のリスクも増えた」。

 陽気でのどかな人たちに囲まれていたイタリアでの生活は一変。周囲には競争心の強い同世代の少年たちが、数少ない黒人の生徒に「オレたちのグループに加わるのか、加わらないのか?早く決めてくれ」と“派閥入り”の可否を求めてきた。

 しかし「アメリカに戻ったらただの人」とイタリアでは無視されていた能力が、母国で注目を集め始めた。13歳のやせっぽちの少年が学校の体育館でダンクを平然とやってのけたのである。その瞬間、学校社会の最下層にいた転校生は一気にピラミッドの頂点に立ってしまった。

 「凄い少年がいる」。その噂を聞きつけたのがローワー・メリオン高校を率いていた当時26歳のグレグ・ダウナー監督。この若き指揮官との出会いが、コービーのバスケットボール人生に大きな影響を与えていく。NBA入りまであと4年。原石の輝きは多くの人を驚かせ、マジック・ジョンソン(元レイカーズ)にあこがれていた少年の夢は、次第に現実に姿を変えようとしていた。

 ダウナー氏はコービーと遭遇した「DAY1」のことをこう語っている。「うちの体育館に来てみないかと誘ったんだ。そしてゲームをやらせてみた。その5分後だったよ。僕がうちのアシスタント・コーチに“彼はもうプロ選手だ”と言ったのは…。父親(ジョー)が体育館の隅っこにいて見守っていたのも知っていたよ。それでこの子は素晴らしい才能を受け継いでいるんだなとわかったんだ」。

 この師弟の出会いはジョー・レイデン著の「KOBE」(1998年刊)に詳細に描かれている。大学時代に選手経験のあるダウナー監督はこの時、コービーに1対1の“果たし合い”を申し入れた。ところが13歳年下の少年に完敗。しかも最後は自ら「もうやめよう」と白旗をあげてしまった。「やめざるをえなかった。子どもに勝てないんだから」。味わった屈辱感は見方を変えると未完の大器との出会いに対する大きな感動でもあった。

 そしてコービーはダウナー監督の誘いを受け入れてこの高校に入学する。周囲の期待は大きかった。ラクロスとサッカーが人気スポーツだったACES(エーシズ=ローワー・メリオン高校の愛称)にあって、イタリア帰りのバスケ少年の存在はひときわ大きかった。

 だが1992~93年シーズン、ACESは所属のセントラル・リーグで4勝20敗。高校は4年制で下級生と上級生では体力差も大きく、有能な1年生が1人いただけでは勝ち星が増えるわけもなかった。だがダウナー監督だけでなく多くの関係者がコービーの非凡な才能と、みなぎるバイタリティーに感銘を受けた。初年度は平均18得点でリバウンドもチーム1位。負けても負けてもコービーはダンクやノールック・パスを随所で披露し、相手チームの選手と監督を驚かせた。

 「高校で多くの選手を見てきたが、彼ほどの選手に出会ったのは初めてだった。圧倒的なポテンシャルだった」とダウナー氏は当時を振り返っている。年齢で言えば日本の中学3年生。そんな生徒が高校の先輩たちを圧倒していたのである。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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